白の境域
















大樹の下で、白の神様と男の子は対峙する。


白の神様は男の子へと手を差し伸べ、一言だけ言葉を紡いだ。


「忘却を・・・・・・」と。


しかし、男の子はその言葉を緩く首を横に振ることで拒絶した。


白の神様はそんな男の子の反応を見て、悲しげな表情をその顔に浮かべた。


「何故・・・・」と零された神様の問いに、「それを望むから・・・・・」とだけ男の子の言葉が返ってきた。


しかし白の神様はそんな男の子の返答に納得しなかった。


白の神様は音も無く男の子へと近寄ると、その額へと白い手のひらを当て―――












さわり・・・・。

微かな木々のざわめきが聞こえる中、紅蓮はとある一本の大樹の前に佇んでいた。
天へとその腕を大きく広げる木を見上げ、すっとその金の眼を眇めた。


「昌浩を・・・・記憶も合わせて返してもらおうか?」


視線の先はやはり一本の木。
数瞬の間の後、ぽぅ・・・っと蛍火のような儚い光が無数に生まれる。


「――・・・どうして?これであの子は心の痛みも苦しみも覚えずに済むのに・・・・・」


それは本当に純粋な問いかけ。
蛍火と共に現れた声の主は、雪のように白い髪をした一人の女性であった。

紅蓮は現れたその女の問いかけに、僅かに眉を顰めて言葉を返した。


「それを判断するのはあいつ自身だ・・・・・・お前ではない。白き神」


白い髪の女――紅蓮に白き神と呼ばれたそれは、ぴくりと眉を動かした。


「・・・・そうね、確かに貴方の言うとおり。でもだめ。帰さないわ・・・・・」

「何故だ。お前が攫っていた子どもは大体三〜十歳くらいの子どもだろう?あいつはその条件には当て嵌まらない」


視線を鋭くして問い詰める紅蓮に、白き神は鮮やかな笑みと共に涼やかな笑い声を零した。
その笑い声に紅蓮の眉間の皺は益々深く刻まれる。


「そうね、それも貴方の言うとおり。・・・・・でもね、綺麗なんですもの」


心が、魂が。

あの子どもの内面を司るものがあまりに綺麗なので、彼の神の眷属から無理矢理引き離してまで手元へと引き寄せた。


「あの子、綺麗ね・・・・・あの歳では稀なほどに。だから、あそこに置いておくのが嫌だったの」

「だから俺達の許から連れ去ったと?そんなもの、お前の独りよがりな道理だ!」

「だったら?一体何だと言うの・・・・?」

「あいつを、取り返す!!」

「ほぅ?やって御覧なさい」


大樹の根元で、白き神と紅き神が互いの意志を掲げてぶつかり合う―――――。







                        *    *    *







事の始まりは、晴明の許へと届けられたある一つの書簡からであった。
その手紙の内容には、「とある村で子どもが神隠しにあっている、それについての調査、及び解決を頼みたい」と書かれていた。

しかし、その神隠しが起こっているという村は、周囲を山々に囲まれたある意味陸の孤島と言っても差し支えがないくらいに不便な所にあった。
その村に行くためには、小さな山を一つ二つほど越えねばならず、到底老体である晴明が赴くことなどできるわけもなかった。(そもそも、そんな事件で一々晴明ほどの陰陽師が直に足を運ぶことの方がおかしい)
なので、晴明の許に来たその調査依頼を、成親・昌親・昌浩の三人が代わりに行うこととなった。

現地へと赴いた三人は、早速神隠しについての情報収集に当たった。
曰く、三日〜四日置きくらいの間隔で子どもがいなくなっているらしい。歳は三歳〜十歳くらいの子ども。
現在までにいなくなった子どもの数は九人で、現在村に残っている子どもの数は三人であるとのこと。
子どもが連れ去られる瞬間を見ている者は誰もおらず、気づいたらいなくなっていたらしい。
と、村の人から聞き出せた情報はこれくらいで、後は皆貝が口を閉ざしたように何も語らなかった。

そんな追求を拒むような村人の様子に訝しげに首を傾げた昌浩達。
何かがおかしい・・・・。そう思えど、その『何』が依然としてはっきりしないので、おかしいとその言葉を口に乗せることはなかった。

そして事件は起こった。
昌浩達が村に滞在するようになってから二日目の日に、子どもが姿を消した。





―――・・・・昌浩も伴って。





もちろん、成親達と物の怪はすぐさま昌浩の行方を追った。
空気中に微かに残る昌浩の霊気を辿って、彼らは山の置く深くへと入っていった。

そして辿り着いたのは、一本の巨木―――――。

樹齢数百年どころか、千年は超えているであろうそれは、その場の空気を圧巻していた。
巨木の威容に、つかの間意識を取られていた成親達であったが、その木の根元に佇んでいる二つの人影によって意識を現へと引き戻された。
人影の一つは白い髪が目立つ女。そしてもう一つは、捜し求めていた子どもの姿であった。
「昌浩!」と、その名を呼ぼうとした瞬間、子どもはがくりとその場にくず折れた。

何が起こっているのかさっぱりわからなかった彼らだが、子どもの異変を察知して、奪還すべく白い髪の女へと攻撃を仕掛けた。そして隙をついて昌浩を救い出し、すぐさま村へと後戻りした。

村へと戻った成親達は、見る限りどこも怪我をしていない昌浩の姿に安堵した。
しかし、昌浩が目を覚まして一言目に言い放った言葉に、その安堵の息も凍りつかせた。


「・・・・・・貴方達は、誰?」


それが昌浩が目覚めて一番初めに話した言葉であった。

昌浩は自分のことも、そして周りの者達のことも全て忘れ去っていた。そう、俗に言う記憶喪失になっていたのである。
あまりにも予想外なことに、成親達は完全に固まってしまった。特にそれが顕著であったのは、昌浩の傍に常にいた物の怪である。
しかし、そのような状態も長続きできるはずもなく、多大に不安顔の昌浩に状況説明を行った。

いまだ完全に状況把握ができていない昌浩に物の怪をつけ(記憶喪失と言っても見鬼の才には影響はなかった)、成親と昌親の二人は引き続き情報収集を行った。
もちろん、その内容とは山の深奥で見た巨木についてである。子どもと共にいなくなった昌浩がその場にいたこと、記憶喪失になった原因として考えられることから、その巨木について調べようとしたのである。
しかし、その巨木の話をした途端に村人は顔色を変え、にべもなく成親達を閉め出した。

流石にこの態度はおかしいと思った成親達は、その後何軒か家を訪ねたが、その反応は皆似たり寄ったりであった。
しかし、何軒か回った後、いまだに子どもがいる家を訪ねた時、その答えを知ることができた。
その家の人はかなりのしかめっ面で嫌々ながらも答えてくれた。(了承してくれるまでかなり頼み込んだ)
己が喋ってしまったことはくれぐれも他言しないことを堅く誓うことで、その人は重い口を開いてくれた。


曰く、その山は姥捨て山ならぬ子捨て山なのだと――――。


今年、この村は天候に恵まれず、育てていた作物は不作であったらしい。
周囲を山で囲まれた孤立している村であったため、自給自足の生活を送っていたのでこの不作は彼らにとって死活問題であった。
何せ村の者達全員が食べる分だけの作物の量がとれなかったのだ。例え今全員が食べる分はあっても、一冬越えるだけの蓄えには到底足りないとのこと。

では、どうやって一冬越えるだけの食料を確保するか。

答えは簡単。口減らしをすればいいのだ。
そしてその対象は、まだ労働力としては使えず、けれども食べる量はかなりある子どもであった。
子どもが複数人いる家の者などは、一番年下の子どもなどを山へと連れて行って置き去りにした。



そう、あの山の中では一番大きいであろう大樹の下に―――――。



そのような行為を何回か行った頃だ、神隠しが始まったのは・・・・・。

山へと置き去りにした子どもとは別に、村にいた子どもが消えた。
それこそ、初めはあれこれと騒いでいた村の大人達であったが、己の村の食料事情を顧みてむしろこのまま神隠しにあったままの方が良いのではないかと考えるようになったらしい。

そしてそう考えるようになった頃、都から遣わされたという者達―――成親達がやって来た。
都へと神隠しの書状を送ったのは、神隠しだと騒いでいた初めの頃。そしてそれに対して派遣された者達がやって来たのは、その神隠しを許容してしまった後であった。
だから、成親達に対する態度がおかしかったのだと、その家の者は話し聞かせてくれた。


この話を聞いて大層困ったのは成親達の方であった。
ことが村の存続に大きく関っているとわかってしまっては、そう迂闊な行動を取ることができない。
さりとて、神隠しにあった子ども達をむざむざ放置しておくわけにはいかない。
けれども、それを行えば村の人達が困る・・・・・と、何とも悪循環に陥ってしまった。
さて、困ったな・・・・と成親達がお互いに顔を付き合わせた頃、居残り組みである昌浩と物の怪に変化が起こっていた。

「こんな所にいたのね、坊や・・・・・・・」
そう言って昌浩と物の怪の前に姿を現したのは、あの巨木の下で昌浩と共にいた白髪の女であった。
女がその場に姿を現した瞬間、物の怪は人型へと瞬時に姿を立ち返らせていた。
昌浩は突如紅い髪の人物へと姿を変えた物の怪に、驚きで目をぱちくりさせていたが、己を安心させるかのように向けられてきた金の瞳を見て心を落ち着かせた。
夕焼け色と金色。その色彩は違えども、その瞳に宿る己を気遣う色合いは同一のものであることがわかったから、安心することができた。
そんな昌浩の様子を見て、紅蓮は改めて白髪の女と対峙する。

何をしに来たのだと紅蓮が問えば、白髪の女はその子を迎えに来たのよと笑って答えた。
その言葉を聞いて、紅蓮の眼は剣呑に眇められる。
そんなことを、この俺が許すとでも思っているのか?と紅蓮が言葉を重ねれば、女は眉尻を下げて苦笑を浮かべた顔で返事を返した。
いいえ、思ってないわ。・・・・・だから、大人しくしていてちょうだいね?
女がそう言うと同時に、床から植物の蔓が生えてきて紅蓮の身動きを封じる。
しかし、そんなものにいつまでも大人しく身動きを封じられる紅蓮ではない。炎を繰り出して、己の身に纏わりついている蔓を焼き払う。
その動作は一瞬。
一瞬であるが、女にはその一瞬だけで十分だった。
紅蓮が身動きの自由を取り戻す一瞬の隙をついて昌浩へと肉迫し、そのままの勢いで昌浩を捕らえるとその場をあっという間に去っていった。紅蓮が追う暇も無いくらいにあっという間に・・・・・・・・・・。

その後、情報収集から帰ってきた成親達に事の事情を話すと、紅蓮はすぐさま山の奥にあるあの大きな木の許へと急いで向かったのであった―――――。







                      *    *    *







眠りの淵から意識を引き上げた昌浩は、思い瞼を徐に持ち上げた。
ゆっくりと数回、意図的に瞬きを繰り返す。
意識が鮮明になっていくと共に、濃厚な緑の匂いが鼻腔をくすぐることに気がついた。
預けていた背を起こし、その背を預けていたそれに改めて視線を向けた。

茶色い、ごつごつとした木肌が視界一杯に広がる。
その木肌―――幹を辿って、視線を上へと動かしていく。とても大きな、生まれてこの方見たこともないほどに大きくて立派な大木が眼に映った。
と、そんな己の思考に昌浩は苦笑を漏らした。

生まれてこの方などと、よくもそんなことが言えたものだ・・・・。

今、昌浩は記憶喪失というものになっている。
周りの人のことはおろか、己自身のことも一切合財全ての記憶を忘れ去っている。
・・・いや、一切合財というのもおかしいか、一般知識、日常動作における知識などはきちんと覚えているのだから。昌浩が失くしてしまった記憶は、そういった記憶を除いたものだ。
それでも、記憶喪失なことには変わりなく、胸の中のどこかがぽっかりと穴が開いたような空虚感が感じられた。


「あら、起きたの?」


木を見上げる昌浩に、横合いから声がかかる。
そちらへと視線を向けると、白髪の女がそこに佇んでいた。


「・・・・俺を、浚ったの?」


あの白い毛並みをした生き物のところから。いや、連れ去られる直前には紅い髪に金の瞳をした人の姿になっていたが・・・・・・・・。


「えぇ、そうよ」

「・・・・・どうして?」

「・・・・・それは、貴方もすでにここの住人だからよ。子どもの楽園という名の捨て置き場・・・・・・・・」

「子どもの・・・・楽園?」


女の言葉に昌浩が訝しげに眉を顰めたその時、突然子ども――それも大勢の明るい笑い声が耳に飛び込んできた。
はっと声のしてきた方へ視線を向けると、木立の向こうから三歳〜十歳前後の子ども達がこちらへと駆け寄ってくる様が見えた。その手には沢山の木の実やきのこ類が抱え込まれている。


「かみさまー!」

「かみさまっ!みてみて!」

「ほら、こんなにとれた!!」


そう口々に言って、子ども達は白い髪の女に収集したそれらを見せる。
女は微笑んで腰を屈め、子ども達と視線を同じ高さに合わせて言葉を交わす。


「そう、沢山採れたわね。でも、必要以上に採ってはだめよ?この山に住む、他の動物達のためにも残してあげないとね?」

「わかってるよ!だから少しずつ色んな所からもらってきたの!」

「ねー!」

「ふふっ!ならいいわ。折角採ったのに落とすといけないから、住処にそれを置いてきなさい」

「はーい!」


傍から見れば、それは親子の会話である。しかし、彼らが親子関係にないことは、その容姿を見ればすぐにわかる。
とその時、一人の子どもが昌浩に気がついた。


「!ねー、ねー、かみさま!そこにいるおにいちゃんは?」


その言葉を機に、他の子ども達の視線も一斉に昌浩へと向けられる。
それぞれが興味津々な視線を向けてくる。
昌浩はそんな彼らの視線に気圧されて、うっと息を詰まらせる。
そんな彼らの遣り取りを見つつ、白髪の女は優しい表情を保ったまま子供達に説明を行う。


「そこのお兄ちゃんはね、新しい仲間よ」

「なかま?」

「ここに住むの?」

「なら、おにいちゃんが、いちばんおおきいおにいちゃんだね!」

「お兄ちゃんも、捨てられたの?・・・・それとも、殺されかけた?」

「・・・・・え?」


昌浩はとある子どもの言葉に、驚いたように顔を上げる。
それは一体どういうことだ?と問おうとしたが、女が早く食べ物を置いてきなさいと子ども達を促してしまったことによって阻まれた。
はーい!という元気な返事と共に、子ども達は女の脇をすり抜けていくと、来た時とは反対の方向の木立の奥へと駆け去っていった。

子ども達の姿が見えなくなった後、昌浩は改めて女に先ほどの疑問を問いかけた。


「・・・・・あの、さっきの捨てられたとか殺されかけたって・・・どういうこと?」

「そのまんまの意味。さっきの子ども達はね、皆貴方がさっきまでいた村の子ども達なのよ」

「え・・・?それって、神隠しにあってるって言う・・・・・?」


確か、己の兄だと名乗った男の人達がそんなことを言っていた。
自分を含め、兄達は村の神隠しの事件について調査をしに来たのだと・・・・・・・。


「まぁ、実際に捨てられたり殺されかけたのはあの中の数人よ。後の子達は私が連れ去ってきたの」

「どうして、そんなこと・・・・・」

「(くすっ)・・・そうねぇ、よく言うでしょう?『七つまでは神のうち』って。私、子どもは全般的に好きなのよ?純粋で、素直で、穢れがなくて真っ白な魂・・・・・見ててね、綺麗だって思うの。もちろん、私はこの山の主だから、この山に芽吹く命達は皆可愛いわ。木々達でも動物達でも、愛しいと思う。・・・・でもね、人間――特に大人は大嫌い」

「人間の、大人・・・・・・」


人間の大人。と言葉を口にした途端、白髪の女――いや、神はその慈愛に満ち溢れていた眼を憎悪へと一遍させた。
昌浩は思わず一歩、後ろへと足を引く。
女の姿をした神はそんな昌浩の動作に気づいているのか、いないのか、特に表情を動かすことなく言葉を続けた。


「そう、人間の大人・・・・あれは見てて醜いわ。子どもを慈しむ様は・・・・まぁ、見るに堪えないほどではないけれど、大人になればなるほど、人という生き物は打算的で利己的になっていく。貴方に殺されかけた?と問うた男の子がいたでしょう?・・・あの子、自分の親に殺されかけたのよ?そう、血の繋がった、実の親に・・・もちろん、その時の記憶・・・というか全部だけれどその記憶は私が奪ったわ。だって、私が助け出した時あの子酷く怯えていたのよ?手がつけられないくらいに酷く錯乱してて・・・・あれは見ていて辛かった」

「・・・だから奪ったの?その子の記憶を・・・・・・」

「えぇ、そんな恐ろしくて辛い、そして悲しい記憶なんてない方がいいでしょう?そんな記憶さえなければ、あの子は、あの子達はああして笑っていてくれる・・・・・」

「あの子達?・・・・もしかして、他の子達の記憶も」

「えぇ、皆記憶を奪ってあるわ。あの子が親に殺されかけたことを知っているのは、私が教えたから。知っているのは殺されかけたという事実だけ。それに付随する恐ろしい記憶なんてあの子にはいらないわ。あの子達は私が守っていく・・・・もう、親に捨てられることも、殺されるという恐怖に脅かされることはない」


女の、あまりの言葉に昌浩は絶句する。
女は子ども達のことを思って、思いすぎて村から子どもを連れ去り、あまつさえ記憶を奪うという暴挙にに出たのだ。それを酷いと非難することは容易いだろう。けれど、女の子ども達を思う心もまた本物なのだ。
どちらが悪いかなど、決めることはできない。だって、どちらも悪いことをしているのだから・・・・・。

ふと、女は瞬きをした後、徐に昌浩の頬に手を添えた。


「貴方は・・・・記憶を奪ったというのに、笑ってはくれないのね」

「え・・・・・・」


記憶を奪ったという女の言葉に、昌浩は軽く目を見開いた。
驚くと同時に、納得もした。そうか、だから今自分は記憶喪失になっているのだと・・・・。


「貴方の記憶、とても痛かったわ。悲しくて辛い。でも、それと同時にそれらを覆すくらいに強い想いがあった・・・・正直、記憶を奪うか奪うまいかで悩んだのよ?」

「じゃあ、どうして俺の記憶を奪ったの・・・・・?」


きっと、自分は記憶を失うことを望んでいなかったのではないかと思う。
確かに、嫌なことがあれば悲しいし辛いと思う、でも、それを補うくらいに嬉しいことがあったとしたら、きっと自分はそのままでいいと思うのではないかと・・・・。でも、それも記憶がない今だから言えるのかもしれない。辛すぎて、それに堪えることができなくてこの目の前の神様にお願いしたのかもしれない。自分の記憶を奪ってと・・・・・・。

しかし、そんな昌浩の不安を、女は次の言葉で打ち消した。


「そうね・・・どうしてかしら?貴方は記憶が奪われることを良しとしなかったわ」

「えっ、それじゃあどうして・・・・」

「・・・・多分、許せなかったんじゃないかしら?折角綺麗なのに、いずれは歪んでしまうかもしれないって思ったから・・・・・だから、無理にでも記憶を奪って、このままの姿でいて貰いたかったと思ったから、こんなことをしてしまったのかもしれないわ」

「・・・・・・・・・・・」


緩やかに頬を撫で、己の顔を覗いてくる女の瞳は、切なげに揺らいでいた。
しばらくその状態が続いていたが、女は何かに気がついたようにはっと顔を上げた。
そしてある一点へと視線を向けて、軽く眼を眇める。
そんな女の様子を見て、昌浩は怪訝そうに問いかけた。


「どうしたの・・・・?」

「・・・・どうやら、貴方を取り返しに来たみたい」

「俺を・・・・・・」


そこで思い出したのは、ここに連れ去られる直前まで一緒にいた紅い人の存在。
きっと、あの人が自分のことを連れ戻しに来てくれたのだろう。根拠はないけれど、確信にも似た思いが昌浩にはあった。

女は素早く立ち上がり、昌浩の手を引くと巨木の根の陰へと隠れさせる。


「ここにいてちょうだい」

「え・・・・でも、俺は・・・・・・」

「・・・・・・わかっているわ、貴方があの者達の所へ帰りたいと思っているのは。でも、少しだけ私に時間を頂戴?納得できるだけの時間を・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」


一体、何を納得するのか昌浩にはわからなかった。けれども、真っ直ぐに己へと向けられた視線に、否定の言葉を吐くことができなかった。
こくりと、黙って首を縦に振った。
それで、この女が己の気持ちに整理をつけられるのなら・・・・と。
女は昌浩の返答に嬉しげに微笑むと、その頭を一撫でしてその場から姿を消した。
そしてしばらくした後、森の置くからあの紅い人が姿を見せるのであった。





「昌浩を・・・・記憶も合わせて返してもらおうか?」





そして、初めの女と紅蓮の会話へと戻る。





紅の炎と深緑の植物が空間を占める。
地に利がある女であったが、女が得意とする植物の攻撃を紅蓮は炎で尽く焼き尽くしていくため戦況は苦しい。そして時間を追うごとに女が負う傷の数が増え始め、とうとう爆炎に吹き飛ばされた。


「いい加減勝負はついた。・・・・昌浩の居場所を教えて貰おうか?」

「ふふっ!私がそう簡単に教えると思っているの?」

「・・・・・もう少し、痛めつける必要があるようだな」


お互いに引く気はなく、強い意志を込めた視線が交わる。
紅蓮はすっと眼を細めると、その手のひらに炎槍を生み出す。チャキ・・・と、その穂先を女の方へと向けて構える。
そんな一触即発の空気の中、ふいに木の陰から何かが飛び出し、紅蓮の腕を掴まえた。


「だめっ!」

「っ、一体なんだ・・・・って、昌浩!?」


己の腕を掴んだ人物が取り戻しにきた子どもだということに気づいた紅蓮は、驚きに眼を瞠った。
しかし、そんな紅蓮の驚きなどをよそに、昌浩はぎゅっと紅蓮を掴む手に更に力を込める。


「お願い!これ以上この人に怪我させないで」

「昌浩・・・・だがな、こいつはお前のこと・・・・・」

「知ってる。この人に聞いたから・・・・・この人も、本当は悪い人じゃないんだ・・・・・」

「どこが!お前の記憶を奪い、連れ去った。これだけの行いで十分に悪い奴と言えるぞ」


眉を寄せ、きつい眼差しでそう言ってくる紅蓮に、昌浩は緩く首を横に振って返す。


「それは・・・・・・この人が、優しすぎるだけだよ。村の子ども達を連れ去ったのだって、彼らが辛い思いをしないようにって、ただそれだけだったんだ」

「村の子ども達もって・・・・・それじゃあ、今回の神隠し騒動の原因はこいつと言うことか?」

「そう、この木の下に捨てられていく子ども達を、捨てられずともその代わりに命を奪われそうになる子ども達の姿を見かねて、彼女はあの村から子ども達を連れ去った。そして記憶を奥底に封じ込め、彼らに山の恵みを与えた・・・・・。俺の記憶を封じたのも俺のことを思ってなんだよ、紅蓮」

「!昌浩っ!お前、記憶が・・・・・・・」

「うん、ついさっきね。紅蓮を止めるために飛び出した時に戻ったよ」


にっこりと笑む昌浩を、紅蓮は金の眼を見開いてまじまじと見つめる。
そこには記憶を失くして不安げな顔をしていた子どもの姿はない。いつもの、昌浩そのものであった。
そんな昌浩の様子を驚いたように見ていたのは紅蓮以外にもう一人いた。そう、昌浩の記憶を奪った―――いや、封じ込めた当の本人である白髪の女だ。


「貴方・・・・・記憶が、戻ったの?」

「・・・・・うん。ごめんなさい、折角封じてくれた記憶だけれど、それでも俺にとってはなくてはならない、大事な記憶なんだ・・・・・・」

「本当に良かったの?悲しくはない?辛くは、ないの・・・・?」


子どもの記憶を封じる時に、その記憶を垣間見た。
命をかけた死闘。大好きな相手を己が手にかける悲愴なまでの決意。忘れられることの哀しさ。約束を、誓いを守れなかった悔しさ・・・・・・・。この子どもには十分以上に辛いことがあったのではないかと思う。
だから、子ども自身が拒んでも無理矢理記憶を封じたのだ。・・・・そう、魂が綺麗だとか、そんなことは二の次三の次で、とにかく子どもの胸が痛まなければいいと、ただそう思った。
なのに、子どもはその記憶を取り戻したのだという。なくてはならないものだと言って―――。


「うん、悲しくて辛いよ?でも、その分だけ嬉しいことも悲しいこともある。だから、俺は笑っていられるよ?」

「そう・・・・笑っていられるのなら、それならいいの。ただ、あの時貴方は悲しそうな顔をしてた気がしたから・・・・・だから記憶を封じたのだけれど、私の早とちりだったみたいね・・・・・・・」


『―――その抱えている子を渡して頂戴、坊や』

『・・・・・貴女は?』

『私はこの山の主――今は忘れ去られた名も無き脆弱な神よ・・・・・』


「・・・・・・あの時、貴女の顔がとても悲しそうに見えたから、俺も悲しくなったんです」

「あら?それでは私の所為なの?」


己を脆弱と称した彼女は、己の非力さを嘆き、哀しげに瞳を揺らしていた。


「村の子ども達を、村に返してはくれませんか?」

「・・・・・駄目よ。だって、殺されてしまうわ。たった一回の不作のために、これから何十年と生きる若い命が摘み取られるのよ?どうしてそれがわかっていてむざむざあの子達を村に返すことができるの・・・・・。不作でも、私に・・・・この山に恵みの恩恵の裾分けを願えば、私達だって鬼ではないのだからその願いに答えたでしょう。けれど、あの村の者達はそれもせずに真っ先に命の切捨てという選択を行った・・・・・それが許せないのよ」


この木の下に置き去りにされた子どもが、己を置いて去っていく親の背を悲しげに見つめていたことを知っていた。きっと、幼いながらにこの場に置いていかれる理由を悟っていたのだろう。
あんな子どもに見合わない表情をさせるなんて、何て人間の大人は酷いのだろうと思った。
それが一人ならばまだ諦めもついた。人の中にはそういう者もいるのだろうと。けれどそれが二人、三人と数を増やしていくうちに、とうとう我慢の緒が切れたのだ。
これ以上、子どもにあんな顔をさせたくはなくて、ならばそんな思いをする前に浚ってしまおうと考えた。
記憶を封じたのは村に戻らせないため。村に戻ったとして、同じような行いを繰り替えされたら堪ったものではないから・・・・・・・・。


「―――大丈夫ですよ」

「・・・・・・・・・え?」


ふいに聞こえてきた第三者の言葉に、白髪の女は驚いてそちらへと顔を向ける。
そこにいたのは・・・・・


「兄上・・・・・・」

「成親と昌親か・・・・」


そう、成親と昌親の二人であった。


「大丈夫。貴女が恐れているようなことは、もう起こりませんから」

「・・・・・それは一体どういうこと??」


成親の言葉に、女は怪訝そうに問いかける。
成親と昌親は意味深に視線を交わし合うと、徐に背後を振り返った。


「あ・・・・・・」


そこには、村人達がいた。
その中には何人か見知った者達がいた。そう、ここに子どもを置き去りにしていった親達だ。
それ以外の者達も、恐らくは連れ去られた子ども達の親なのだろう。


「う、うちの子を、どうか返してください!」

「お願いします!」

「一度置き去りにした身で今更何を言うかと思います。けど、やっぱりあの子がいないと駄目なんです!」

「どうか、うちの子を・・・・・・」

「あの子を返して!!」


彼らは皆口々に子どもを返してほしいと嘆願する。
女は、そんな村人達を信じられないものを見るかのように、呆然と眺めやっていた。


「ど、うして・・・・・・」

「彼らを説得してきたんです。農作業だけで足りない収穫の分は、山に生っている木の実や山菜、きのこなどで補えばいいと・・・・。折角四方を山に囲まれているのだから、その恩恵に与らないのは何故かと、そう言ってやったんですよ」

「その話をしたら皆さん、自分の考えを改めてくださったんです」

「そして、こうして形振り構わず子どもを捜しに来たってわけだ。どこへ子ども達が消えていったのかわからないから、取り敢えず子どもを置き去りにした現場から捜索を始めようということになってな」


でも、流石に神隠しの犯人がいるとまでは思わなかったな・・・・。

そう言って成親は軽く肩を竦めた。
昌親もそんな成親の隣で苦笑を零している。


「・・・・・・おとうさん?」


ふいに、子ども特有の高めの声が響き渡った。
はっと、全員の視線がその声のした方へと向けられる。
そこには、神隠しにあって姿を消していた子ども達の姿があった。

皆呆然としている中、初めに動きを見せたのは子ども達の方であった。


「っ、おとうさぁん!」

「おかあさん!」

「かーちゃん・・・・」

「う、うえぇーん、かぁ・・・ちゃ・・・・・」

「・・・・・と、さん・・・・」


子ども達が、それぞれ自分の親の許へと駆け出す。
親達はそんな子ども達を歓声を上げて迎え入れた。

そんな彼らの様子を、白髪の女は衝撃に眼を見開いて眺めていた。


「う、そ・・・・。どうして皆、記憶が戻っているの・・・・?」


確かに、記憶は封じたのだ。今日までの生活の中で、記憶が戻っている素振りなど彼らは見せなかった。
だというのに、どうして今この時に記憶が戻っているのだろう・・・・・・・・。
どうして、どうして?と、その言葉だけが女は胸中で反芻していた。


「親と子の絆は、例えどんなことがあっても切れることはない。・・・・ということだな」


紅蓮の言葉に、女ははっと顔を上げた。


「絆・・・・・」

「親が子を求めると同時に、子もまた親を求める。どんな諍いがあろうとも、互いを思う気持ちは揺らがないのだろう」

「・・・・・・・・・・」


女は紅蓮の言葉にしばらく考え込んでいたが、意を決したように顔を上げると、村人達に向けて口を開いた。


「・・・・・・・・再びはないと、誓いなさい。そうすれば、私はもう何も言わないわ・・・・・」

「はい!もう、このようなことは二度と致しません!!」

「傍から離れて初めて、子の大事さを身に沁みて実感しましたから・・・・・・・」


村人達はそう口々に誓いの言葉を立てると、己の子の手を引いて山を下り始めた。
後に残ったのは昌浩達と、白髪の髪のみであった。


「・・・・・・・・俺達も、そろそろ行きます」

「えぇ・・・貴方には、色々と迷惑をかけてしまったわね」

「いえ、本当に俺のことを気遣っていてくれたことは、きちんとわかってますから・・・・だから、どうか自分のことを責めないでください」

「ふふっ!・・・・・・本当に、どこまでも優しい坊やね。あがとう・・・・・・・」


白い神は微笑みながらそうお礼を言うと、ふわりとその場から姿を消していった。







後にはひらりと舞い落ちる一枚の木の葉のみが残された――――――。










※言い訳
漸く書き上がった!なかなか書き上がらなくて半泣き状態でしたよ;;
今回、記憶喪失がテーマだったのですが、あまり昌浩の記憶喪失な描写ができませんでした。かなり悔しいです。こんなに長々と書いたのに!って感じですね。
私にはどうやら記憶喪失をテーマに書くと、一話分では到底終わることのできない長ったらしい文章しか作ることができないようです。このお話を書き上げる前に、何個かこのテーマでお話を考えてみたのですが、どれも一話では終わってくれそうになかったので・・・・。一番短く終われそうなこの話にしました。でも、これでも色々と削って書いたんですけどね・・・・・。結構長い文になりました;;
これはフリー小説ですので、もし気に入っていただけたらどうぞご自由にお持ち帰りください。


2008/3/8