彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?








  薄氷の瞳








まだ夜明けには少し早い寅の刻。
した力を回復するために療養生活を送っていた昌浩は、浅い眠りから目を覚ました。
少しの間、そのままの体制でぼぉ―っと宙を眺めていた昌浩は、微かに身じろぎをした。


「―――・・・・起きたのか?」


微かな身じろぎの音を聞き取ったのか、すぐ傍に控えてていた六合が静かに問い掛けてきた。


「うん・・・なんか目が覚めた」

「もう少し寝ていろ、まだ夜明けには少し早い」

「うん、そうする」


六合にそう返事を返した昌浩だが、ここ最近は浅い眠りばかりで満足な睡眠を取れずにいた。
昌浩自身も何とか眠ろうと努力はしているのだが、その心とは裏腹に微睡むだけに止まる。
せっかく浅い眠りについても、今回のように夜明けには少し早すぎる時間には目が覚めるということが頻繁であった。
そして一度浅い眠りから覚めてしまえば、再び眠りにつくことはとても難しかった。
つまり、今現在の昌浩も六合に返事を返したものの、眠れずにいた。

袿の中でもぞもぞと動いて一向に眠る気配が無い昌浩に、六合は内心溜息を吐いた。
そして躊躇いがちに口を開いた。


「眠れないようなら、少し話しでもするか?」


昌浩にそう問い掛けると、今までもぞもぞとしていた動きが止まり、袿の端から昌浩が顔を覗かせる。
その顔は驚きによってやや大きく目が見開かれていた。
普段から口数は多くない六合、そんな彼が自ら進んで会話をしようなど稀に見ないことだ。


「嫌なら別にいいが・・・・」

「ううん。そんなことない・・・・・あの、六合が迷惑じゃ、なければ・・・・・」


語尾になるにつれ段々と声が小さくなりながらも、昌浩はそう言った。


「迷惑なわけがないだろう、自分から申し出たことなのだからな」

「そっか・・・・うん、だったら少しだけ」


そう言うと昌浩は褥から抜け出し、六合の隣に腰を下ろす。


「春とはいえまだ夜明け前だ、身体を冷やすわけにはいかないだろう?これを被っていろ」


そう言うと、六合は肩に掛けていた長布を昌浩に掛けてやる。


「わっ!・・・・・ありがとう六合」

「いや・・・・・」


そこで会話は一旦途切れ、二人はしばらくの間夜明けには僅かに早い空を眺めていた。


「・・・・・・・・眠れないか?」


ふいに六合が問い掛けてきた。
声に反応して、昌浩は六合へと視線を向ける。


「そんなことないよ・・・・・・・一日中寝てるしさ」


「重い響きを含んだ六合の問いに、昌浩は心持明るめな声で答えた。
答える際には笑顔であったが、その笑顔もどこか翳りを含んでいるものだった。


「それは寝ているだけで、眠ってはいないだろう?」

「・・・・・・・・・・・・・」


しかし、六合は昌浩の笑顔に騙されることなく再び切り返す。
これには昌浩も言葉を返せず、その代わりに僅かばかりの変化を見せる空を仰ぐ。
藍と蒼の交じり合う空は、紫を伴った不思議な色合いを見せる。
もうすぐ夜が明けるな。
そうとりとめも無いことを考えつつ、昌浩はふいに泣きたい気分になった。

歴史において、どんなことが起ころうと時間は止まることなく均等に流れていく。
それは昌浩にとっても同じことで、過ぎた時間はもう戻ることはないのだ。
あの時こうしていれば・・・・・・・などと考えても意味の無いことである。
そう、昔を想うなど意味の無いこと。現実から目を背けることなど決してできないのだ。
泣くことはできないけど、目の潤いが弱冠増えることまでは抑えることはできない。
目の潤みを隠すためにそっと目を閉じる。

そんな昌浩の様子を六合は静かに見ていた。
あぁ、やはり泣かないのだな。
そんなことを考えつつも、心の片隅で納得している自分がいることを感じていた。
ここのところ昌浩はあまり眠れていないようだった。
あまり眠れないことは寝不足に繋がり、寝不足は体調の不調子を引き起こし、体調の不調子がまたあまり眠れないという状況に陥らせているのだろう。

しかし、いくら六合達が心配しようとも、根本たる原因が昌浩の深層心理となるとどうしようもない。
十二神将といえど、どうこうできる問題ではない。
これは昌浩の問題だ。
そうはわかっていても、一向に回復の兆しが見えない昌浩を見ていて、決して何も思わないわけではない。
それが例え十二神将の中で一番寡黙だと言われている六合であっても・・・・・・・・。
いくら表情をほとんど表に出さないといえど、感情が無いわけではないのだ。
日に日に精神疲労の色を濃くさせていく昌浩を見ていて、もどかしさを感じずにはいられない。

唯一、打開策があるとすれば精神疲労の原因ともいえる騰蛇が、昌浩のことを思い出すということにあるだろう。
しかし、現状ではそれが難しい。となれば打つ手は自分達には無い。
そんな事実がひどくもどかしい。
以前は全く気にすることがなかった騰蛇の態度に苛立しささえ覚える。
しかし、何よりも衰弱の一途を辿る昌浩に何もしてやれない自分自身が苛立しい。

自分ではだめだ。支えることはできても救うことはできない。
他の十二神将も然り。
それが唯一可能なのが騰蛇。


「う――ん・・・・・・もしかしたらあんまり眠りたくないのかもしれない」


かなりの時間が経過してから昌浩は漸くぽつりと呟いた。


「何故・・・・・・・・・」


言うつもりのなかった疑問の言葉が口をついて出る。


「だって、夜にだけ近くにいてくれるから・・・・・・・・・・」


誰とは言わない。
けれどそれは言わないだけであって、それに当て嵌まる人物はたった一人しかいない。


「なんかさ、折角近くに来てくれてるのに自分は寝てて気づかないのは勿体無いっていうか、何というか・・・・・」


ひどく惜しい気がして眠れないのかもしれないと、そう子どもは淡く笑って答えた。
六合は黙って子どもの言葉に耳を傾ける。
多分、子どもが今言っている言葉は、本心の一片を含んでいるのは明らかだろう。


「欲張りだよなぁ・・・・・・忘れていいって言ったのは俺なのに・・・・・」


本当は忘れてほしくなかったんだ。

後に続く言葉は口に出さずに、心の内に止めておく。
それは決して音にしてはいけない。
そうしなければきっと自分は耐えることができないから。


「・・・・・・・・何故いけない?」

「え?」


ふいに六合が口を開いた。


「どうしてそれがいけないと、お前は思う?」


六合はもう一度同じ言葉を繰り返す。


「どうしてって・・・・・・」

「親しい者に、自分のことを覚えていて貰いたいと思うのは当然」

「・・・・・・・・・・・・・」


六合とて昌浩の立場になったのならば、同じことを思うだろう。
自分の腕の中で息を引き取った黒髪の少女が脳裏を過ぎる。
記憶は形無きもの。ましてや信頼関係などそう容易く手に入るものではない。


「それでも・・・・・・俺自身の身勝手な願いだから」


文句は言えないのだと子どもは淡く笑って答えた。
その笑みのなんと痛々しいことか。
六合は衝動的に昌浩の頭に手を置く。
子ども特有の柔らかい感触が心地よい。
そのまま数度ゆっくりと撫でる。
頭を撫でる大きな掌の感触も、今はもう会うことの叶わない優しい神将を思い出させて止まない。


「・・・・・・・十二神将は神といえど全能というわけではない」


六合の意図するところはわからないが、昌浩は黙したまま頷く。


「だから、支えることはできるが救うことはできない」

「・・・・・・・・・・・・・」

「自分を救うことができるのは自分自身のみ・・・・・・・・持ち直すか直さないかはお前次第だ」

「うん・・・・・・・わかってる」


何時にもまして饒舌な六合を少し意外に思いつつも、昌浩は言葉少なく答えた。
わかっている。
これは己の心の問題。自分以外の何人たりともこの問題を解決することはできない。
己の心を知るのは己のみ。
また、己の心を救えるのも己のみだと六合は言いたいのだ。

昌浩は静かに瞑目する。
記憶がなくなる前の騰蛇、記憶がなくなった後の騰蛇。
彼の取り巻く空気が弱冠違えど、どちらとも確かに彼なのだ。
昌浩はそっと息を吐く。
いつかまた、以前のように共に有ることができるだろうか?先の全く見えない話だが、そう思わずにはいられない。
そこで昌浩はゆっくりと口を開く。


「―――例え記憶が無くても・・・・・・・」


段々空が白じみ、明るくなってくる。


「俺自身の想いまでは変わらない」


次第に明るくなる空と共に、昌浩の心の中に溜まった何かも少しだけ軽くなる。


「俺の記憶がなくなるわけでもない・・・・・・ましてや過去がなくなるわけがない」


少し前まで一人で迎えていた朝があった。
それに比べれば少し距離があるだけで彼が近くにいてくれる。
それのなんと嬉しいことか。


「だから・・・・・・・・・」


振り出しに戻っただけだ。
信頼は勝ち取ればいい。
忘れてくれるなと心が叫び、軋む。
しかし、一歩でも踏み出さなければ前に進むことはできない。


「俺は”今”を選んだ」


彼のいない今ではなく、彼と共にこの時を送ることを―――――。


「そうか・・・・・・・・・・」


六合はそう短く言った。
この子どもはとても強固で真っ直ぐな心根をしている。しかし、それと同時にひどく脆い。
脆いと言うより、この場合は我慢が過ぎると言った方が適切か。
それはこの度の件でよくわかった。
いや、以前からそういう節は見られていたので、再認識したというのがいいかもしれない。
そこで会話は途切れ、しばらくの間二人は薄紫がかった雲と藍から殆ど蒼色に染まった空を眺めていた。


「・・・・・・・・もうほとんど夜が明けてしまったが、もう一度眠り直した方がいい」

「うん、そうだね・・・・・・・そうするよ」


六合の言葉に昌浩は一つ頷き腰を上げる。


「あ、長布ありがとう」

「あぁ・・・・・・・・・」


昌浩は今まで肩に掛けていた六合の調布を彼に返した。
六合はそれを受け取る。
そして、昌浩はもう一度眠りにつくために自分の褥へと戻っていった。
しばらくして静かな寝息が六合の耳に微かに届いた。

六合はそれを聞いて内心息を吐く。
自分が昌浩にしてやれることはこの位だ。
彼の話を聞くだけ。
後は彼の心の整理がつくのを待つだけ。
六合は静かに目を閉じた。


願わくば、彼の少年に幸が多いことを―――――












朝の心地よい風が吹き抜ける。












今はただゆっくりと時を過ごすだけ。















※言い訳
今回は17000hit記念のフリー小説です。
皆さん気が向きましたら、どうぞご自由に持って帰ってください。
久々に薄氷シリーズを書きました。今回は六合編です。
なんか六合の視点を重点的に書いていくつもりだったのですが、昌浩の視点もなんかやたら多く書いてしまった気がする・・・・・・・・・・・。
え?いつものことだって?そんなこと言わないで下さい。わかってますから。
さて、次は誰のバージョンかこうかな・・・・・?

2005/11/15