彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?








  薄氷の瞳











春になり、大分暖かくなってきた昼下がり。
昌浩は一人で日向ぼっこもとい、気分転換のために庇に腰を下ろして外の風景を眺めていた。
いくら春といえど身体に障ると悪いからと、自分の肩に袿を掛けてくれたのは最近知り合った十二神将・勾陳であった。
しかし、その勾陳はいつの間にか姿を消しており、今は一人静かに時間を過ごしていた。

一日一日の変化は微々たるものだが、しかし確実に変化していく風景を眺めることが最近の昌浩の日課になっていた。
といっても、体調が良いというのが最低条件であるが。
葉がすべて落ち、どこか寂しいものを感じていた木々も若草色の芽があちらこちらと覗き、それを見て春だなと感慨深げに思っていた。
この頃は花が咲いているのも目に映り、とても華々しい感じがする。

流れていく雲を見るともなしに見ていた昌浩は、ふいに強くなった風に視線を空から地へと移した。
視線の先―――切り株などがある開けた場所に十二神将の太陰が立っていた。
周囲の偵察から戻ってきた所なのだろう。

日向ぼっこをしている昌浩に気づいた太陰は、戻ってきて早々声を大きくして叫んだ。ついでにこちらを指すのも忘れない。


「あ―――っ!昌浩!!いくら体調がいいからってそんなに長く外にいたらまた体調を崩しちゃうわよ!!」

「だって褥の中でじっとしてるの退屈だし・・・・」


弱冠、視線を泳がせながら昌浩は答える。


「退屈だしじゃないわよ!出掛ける時に見かけたけど、まさかあれからずっと外にいたわけじゃあないでしょうね!?」


太陰は胡乱気に聞く。
そう。太陰はちょうど偵察に出掛ける時に昌浩が褥から起きてくるのを見ていたのだ。


「・・・・・・・・・・・」

「いたのね・・・・・・・」


何も答えず沈黙する昌浩に、太陰は自分の予想が正しかったのだと確信する。
太陰は肩を落としながら長く、長―――く溜息を吐く。
そしてしばらくの間微動だにせず、さらには一言も言葉を発しない太陰に昌浩は恐々と声を掛ける。


「た、太陰?」

「・・・・・・・・・・」


が、太陰は掛け声に反応を返さない。
太陰の常には無い反応に、昌浩はどうしたらいいのかわからず困惑する。


「えっと・・・・・・太、陰?」

「・・・・・・・か・・・・・・な・・の・・・・・」


何と声を掛ければいいのかわからず、太陰の様子を窺おうとか屈みこんだ昌浩に、微かな太陰の声が届く。
太陰の様子をよく見ると肩が小刻みに震えている。
ふいに、ゆらりと太陰が顔を上げた。そして―――――


「ば――――――――――――――っかじゃないの!!?」

「・・・・へ?」


思いっきり罵倒した。
罵倒された昌浩はというと、一瞬何を言われたのかわからず間抜けな声を出した。


「いくらなんでもちょっと暖かくなった位の外で、ぼへ―――っとしてるなんて馬鹿じゃないのって言ってるのよ!まだ本調子じゃないんだから、風でも引いたらどうすんのよ!!」


漸く喋ったと思えば、今度は怒涛のごとく話し出す。
いや、本人はこれで叱っているつもりなのだろう。


「えっと、ごめん」

「謝っている暇があったらさっさと中に入る!」


もう!こんなに身体冷やして!!
目許を険しくしながら、太陰は昌浩の背中を押し、庵の中に入るよう促す。


「わかった!わかったよ太陰。だからそんなに押さないで」

「何よそれくらい。こっちは一杯い―――っぱい心配してるんだからね!!」

「うん、それもわかってる」

「―――っ!!」


僅かに振り返った昌浩の顔が苦笑していたため、太陰はそれ以上何も言うことができなかった。
苦笑していた顔がとても切なげに見えたから・・・・・・・・・・。


「私はっ―――――」


太陰は思わず声を出していた。
太陰の声に反応し、昌浩が振り返る。
昌浩を叱り飛ばしたのはそんな顔をさせるためではない。本当に身体を大事にして欲しかったから・・・・・。


「と、騰蛇が怖い。どうしようもない位に」

「・・・・・・・・・・・」


昌浩を前にして、決して言うつもりのなかった言葉が零れ出る。


「苛烈な神気とか、突き放すような態度とかもそうだけど、・・・・・何よりもあの眼が怖かった」


十二神将として生をうけて幾星霜、太陰は初めて胸中に巣食う思いを吐露した。
相手は自分と同じ位の年恰好をした黒髪の神将ではなくて、まだ年端もいかない人間の子ども。
その相手の子どもは黙って太陰の言葉を聞いている。


「けどっ!昌浩と一緒にいた時の騰蛇は・・・・・・・確かに怖いけど、でもそんなに怖くなかったの!!」


宮中で緊張感に欠けるような会話をしていた昌浩と騰蛇。
自分はその光景を見て我が眼を疑った。というよりも本人かどうか疑わしいと思った。
それ以前に”あの”騰蛇があんな異形の姿をとっていること自体がありえないと思った。
今まで積み重ねてきた騰蛇のイメージと全く違う騰蛇。まさに晴天霹靂なことだった。


「今の騰蛇なんて大っ嫌い!!!」

「太陰・・・・・・・・・」


太陰はありったけの思いを込めて叫ぶ。
昌浩はそんな太陰を止める事ができず呆然としている。
確かに太陰は喜怒哀楽の働きが激しい。しかしここまで荒れる太陰を見るのは初めてで、どう宥めればいいのか昌浩にはわからなかった。


「あ、あんな騰蛇なんか・・・・・嫌い、なんだから・・・・・・・」


太陰は確かに騰蛇が怖い。たが、嫌いだとは思ったことがなかった。好き嫌いの以前に恐怖にも似た畏怖で近づくことさえしなかったのだから。
それは太陰が悪いわけでも、騰蛇が悪いわけでもない。仕方が無いこととしか言えなかった。

だがどうだ。記憶がないというだけで、掌を返したように昌浩に冷たい態度をとる騰蛇。
それは一瞬垣間見た夢か幻だったように思うほど鮮やかな切り替わり。

自分達は今の騰蛇を当たり前と見ることができるが昌浩は別だ。
昌浩は今の騰蛇を知らない。知っているはずがないのだ。
これほどまでに態度に落差があれば堪えないはずがない。

更に記憶を失くした後でもあの異形の姿をとっている。
あれは騰蛇が昌浩と出会った後にとるようになった姿だと聞く。その姿であの態度。
それが昌浩にとって傷を抉り、膿ませる行為だとも気づかない。
昌浩にとってこれほど辛いことはないだろう。
昌浩がその姿を見て瞳を揺らげるのを自分はただ何もできずに見ている。
それが酷く歯がゆい。

このままでは遠くない未来、昌浩に限界がきてしまう。
誰にも弱音を吐かず、ただひたすら内に溜め込む昌浩は傍から見てもとても不安定なものに見える。
ぴんと張り詰められた糸が何時切れてしまうのかわからないまま、危うい均衡が続く。


「・・・・・・俺は、今の騰蛇、嫌いじゃない」

「―――え?」


長い沈黙の後、昌浩が口を開く。
太陰は昌浩の意外な返答に思わず聞き返す。


「確かに、態度は前と比べれば冷たいけど・・・・・・だからって俺が騰蛇を嫌いになる理由にはならないよ」

「どうして・・・・・・・・」


穏やかに笑ってそう言う昌浩を見て、太陰はどうしてそんなことを笑って言えるのか不思議に思えて仕方が無かった。
昌浩の笑みは穏やかさを通り越して、ひどく静かで澄んでいた。太陰にはそう見えた。
騰蛇のあまりの変化に一番辛い思いをしているのは昌浩自身のはずなのに・・・・・・・・。


「俺にとっては、記憶や・・・・・態度よりも。今、騰蛇がここにいて、生きていてくれることが何よりも大事だったんだ」

「で、でも!今の騰蛇は昌浩のこと、何も覚えてないのよ!?覚えていないどころか思い出そうとも、気にしようという素振りもないじゃない!!それでも・・・・・・・それでもいいっていうの!!?」


ただ生きていてくれれば・・・・・・・・と言う昌浩。しかし、そんな懸命な昌浩の想いと裏腹に騰蛇の昌浩に対する態度はあんまりなものだ。
これでは昌浩が救われない。


「・・・・・・・ずっと、同じままなんてものは、俺は無いと思うよ」


だから生きてさえいれば変わっていけるものだと、いくら以前の記憶がなくともまた初めからやり直していけるものだと信じている。
そう言って昌浩は遠くを見る。
生い茂る木々の隙間から青く澄んだ空が見える。
そんな昌浩を見つつ、太陰は溜息を一つ吐いた。


「もう・・・・・・お人よしと言うか、不器用と言うか・・・・・・・・・いえ、馬鹿ね。そう頭に超がつくほどの馬鹿なんだわ」


太陰はそう言って呆れたような顔で昌浩を見る。
昌浩はそんな太陰を見て苦笑し、大人しく横になった。


「とにかく!ちゃんと寝てなさいよね、昌浩!!」


びしっ!と昌浩を指差しつつ、太陰は強い口調でそう厳命した。


「うん、わかったよ太陰・・・・・」

「本当ね?絶対よ??」

「はい、はい」


昌浩の言葉に念を押して太陰は外へと出て行った。
それを昌浩はどこか楽しげに見送ったのだった。

外に出た太陰は背の高い木の上にいた。


「はぁ・・・・・・本当に早く良くなってよね、昌浩・・・・・・・・」


太陰はぽつりと呟き、晴天そのものの高く澄んだ蒼空を眺めた。












願わくば、彼の少年に穏やかな日々が再び訪れますように―――――。














想いは風に乗り、果てしなく遠くに運ばれていく。













この想いよ、どうか届け。
















※言い訳
ということで、20000hit記念フリー配布小説『薄氷の瞳』シリーズ第三弾。
今回は太陰編です。
シリーズとして書いているのはいいが、なんか内容が似たり寄ったりな気がします・・・・・・。
うーん、テーマが一緒なのでどうしても書いている内容も似たもの同士になってしまうみたいです。なるべく被らないように努めます。
どうかこんな駄文でも貰ってやって下さい。

2005/12/29