彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?










  薄氷の瞳










昼に最高潮に達した気温も段々と下がっていき、肌を撫でていく風がひんやりとしたものになっていく夕暮れ時近く。
青く晴れ渡っていた空も、薄っすらと黄色を帯び始める。

昼寝と称して、天気の良かった昼間も筵の上に寝かされていた昌浩は、気分転換をしようと庵の中から簀子へと出てきた。
ゆっくりと、それでいて深く息を吸い込む。
外の清涼な空気と、肺の中に溜まっていた空気を入れ替える。
さわりと風が吹き、それに合わせて束ねられていない昌浩の髪が揺れる。


「気分転換か?」


ひとしきり深呼吸をし終えた昌浩に、声を掛ける者がいた。
昌浩は声が聞こえてきた方へと視線を動かす。

その視線の先にいたのは・・・・・・・


「勾陳・・・・・・・・・・・」


先日の一件以来、行動を共にするようになった十二神将・勾陳。

彼女は柱に背を預け、斜に構えてこちらを窺っていた。
ゆるやかな風が吹き通ると共に、肩口で綺麗に切り揃えられた黒髪がさらさらと音を立てて揺れ動く。


「今日は大人しく寝ていたようだな」

「今日はって・・・・・いつもは大人しく寝ていないように聞こえるんだけど・・・・・・・・・」

「事実、寝ていないだろう?少しでも体調が良いと思えば起きていられる限り日向ぼっこをしようとする。いくら動き回らないとはいえ、顔色の悪い状態で同じ場所でじっとしていられればこちらとしは気になって仕方ない」


そう言って薄く笑う勾陳に、昌浩はばつが悪そうな顔をする。


「うっ・・・・・・でも、横になってばかりも体に悪いし・・・・・・・・・・・・・」

「ほぅ。では、それで体調を崩した場合もお前は同じことを言えるのか?」

「・・・・・言えません」


少し、意地悪げに聞いてくる勾陳に、昌浩は早めに白旗を上げておく。
昌浩はこの神将に対して、口で勝つことは決してできないだろう。

同じ神将の六合とはまた別の冷静沈着さ。
大局の行く末を後方からじっくりと見定めるような、一言で言えば”大人”な神将である。

考え事に耽って、ぼぉーっとしていた昌浩の肩にふぁさりと袿が掛けられる。


「体を冷やすのはよくない、これを掛けておけ」

「あ・・・・・うん、ありがとう」

「なんの。こちらとしてはお前に早く復調して貰いたいのだ、この程度の気配りなど辞さない」


お礼を言う昌浩に、勾陳はそう言って微笑する。
口元だけ微かに動く笑い方ではあるが、別段冷たくは感じない。
それは、昌浩の一番近くにいた金眼の神将の笑みも、そういった部類のものだったからなのかもしれない。

もうしばらく外を眺めていようと考えた昌浩は、その場に腰を下ろす。
昌浩のそんな行動をあらかじめ予測していたのか、勾陳もその隣に腰をおろす。
どうやら話し相手になってくれるらしい。

しばらくの間、会話のない穏やかな空気が流れる。

先に口を開いたのは昌浩。


「・・・・・勾陳は、さ。もっくん――――騰蛇とは仲が良かったのか?」

「何故?」

「・・・・・勾陳のこと、”勾”って呼んでたから・・・・・・・」


昌浩が物の怪と共にいて知る限りでは、他の神将を親しげに呼んでいるのは初めてである。
最近、行動を共にすることが多かった六合でさえ”六合”と普通に呼んでいたのだ、”勾”と呼んでいることを見れば仲が良かったのだろうと推測される。


「それを聞いて、お前はどうする?」

「別にどうもしないよ・・・・・・・ただ、昔はどうだったんだろうって、聞けたら聞いてみたいなと思っただけ」


昔のこととか、あんまり語らないから・・・・・・・・・・・。

過去を見ているのか、昌浩は遠い眼をしながらそう言った。
勾陳はそんな昌浩を見つめ、「そうか・・・・・」と一言だけ呟いた。

そして、またじばらくの間沈黙が流れる。
何事か目線を下げつつ考え込んでいた勾陳は、表情を動かさずに徐に口を開いた。


「昔の騰蛇か・・・・・・・・・そうだな、一言で言えば馬鹿だな」

「・・・・・・・・へ?」

「いや、馬鹿なのは今もか・・・・・・・・。まぁ、何にせよ私があれに対する最初の見解はそれだったな」


思いもよらない勾陳の言葉に、昌浩は唖然とする。
十二神将最強にして最凶の彼をよりにもよって馬鹿呼ばわり・・・・・・・・。

驚きに固まっている昌浩を見て、勾陳はくすりと笑った。


「意外か?だが、私が奴を見て初めて抱いた感想がそれなのだよ。十二神将・騰蛇。あいつの身に纏う神気は苛烈にして甚大、極めつけがあの態度。目つきは凶悪、言葉遣いはそっけない、態度も人を突き放すようなものだから他の神将達に毛嫌いされる・・・・・・・・前半は仕方ないとしても、後半のそれは明らかに本人が悪い」

「こ、勾陳・・・・・?」


何故か騰蛇をめたくそに悪く言っている勾陳に、昌浩は最早面食らうしかない。

てか、良いところ全然ないじゃん!!!

内心つっこみつつも、昌浩はできるだけ表情を変えずに黙って話を聞く。
せっかく、勾陳から見た彼の話を聞けるのだ、水を差すような態度はなるべく避けたい。


「とまぁ、様々な要因からあいつはあまり人付き合いが上手くない。言葉を交わすのも私や六合・・・・・・あとは天空位だったかな?で、異界でも殆ど一人でいた」

「・・・・・・・一人?」

「あぁ、自分から他人に関わらないように努めている節があったな」

「そうなんだ・・・・・・・」

「今の騰蛇を見ていればわかるだろう?昔は大体あのような感じだったと思ってもらって構わない」


そう言われて、昌浩は最近の物の怪の様子を思い浮かべる。

そっけない態度、抑揚のない声、そして凍てついた瞳―――――。
そこまで思い起こした昌浩は、締め付けられるような胸の痛みを感じた。

自分を忘れた―――忘れさせられた物の怪。
自分の傍にいてくれない物の怪・・・・・・・・。

願ったのは自分。
忘れていいよと言ったのも自分。
それでいいのだと自分に言い聞かせのたのも・・・・・・・・すべては自分自身。

だから、今感じている痛みは本当はあってはならないはずのもの。
そう感じるなど・・・・・・・傲慢にも程がある。

考え込んでいた昌浩は、再び話し出した勾陳の声によって現に引き戻される。


「昔の騰蛇について、私が語ってやれるのはこの位だ」

「・・・・・・・・・・・」


本当はもっと語れることがあったのだが、今の昌浩にこれ以上語るのは酷なことだと思った。
騰蛇が本当に騰蛇たる者になったのはつい最近、ほんの十三年前のことである。
それ以前の騰蛇など語るに足らないだろう。


「昌浩、お前は今の騰蛇をどう見る?」

「・・・・・今の・・・・・・・・?」

「そうだ。今の奴はお前のことを忘れている・・・・・・今まで培ってきた信頼も、想いも、何もかもが白紙に戻った。今現在のお前に対する態度に嘘も偽りもない・・・・・・・・騰蛇は騰蛇だ。それをお前はどう思う?」


”騰蛇”はまぎれもなく騰蛇なのであると、勾陳はそう言った。

黒曜石の瞳が真摯に昌浩を見つめてくる。
昌浩はその瞳を逸らさずに正面から受け止める。

勾陳の言葉は昌浩にとってとても重く、辛いものだ。
だが、彼女はそれを敢えて昌浩に突きつけてきた。
昌浩はひどくゆっくり、瞬きをした。
そして、緩慢な動作で口を開いた。


「何も・・・・・・・・・」


様々な思いを込めて、昌浩はただ一言そう言った。
その言葉に、勾陳の形良い眉がぴくりと僅かに動く。


「・・・・・・何も?」

「・・・・・うん。さっき勾陳も言ったでしょ?騰蛇は騰蛇だって・・・・・俺も、そう思うよ?記憶がなくったって、もっくんに変わりない」


だから物の怪に対して、思うことは何もない。

昌浩はそう囁くように勾陳に告げた。
その言葉に、勾陳は些か驚いたように僅かに眼を見開く。
昌浩はそんな勾陳の反応に気づかず、空を見上げた。

黄色から橙色へ。空の色が次第に変わっていく。
茜色や薄紫色を帯びた雲を眺める。
吹き抜けていく風は完全に冷え込んでいた。


「そうだな・・・・・・思うことがあるとすれば・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・?」


やがて昌浩がぽつりと言葉を漏らす。
勾陳は空を見上げたままの昌浩の横顔へと視線を向ける。


「”眼”がね・・・・・・残念、かな?」

「・・・・・・・・眼?」


昌浩の言葉に、勾陳は弱冠首を傾げつつ問い返す。
昌浩は依然として空を見上げたまま言葉を続ける。


「せっかく夕焼けの色なのにな・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・」


独り言のように昌浩は呟く。
あの夕焼けの瞳が様々な表情を見せることを、昌浩は知っている。



暖かさを帯びた優しげに笑う”眼”を知っている。

怒りに激しく燃え上がる”眼”を知っている。

強い決意を湛えた凛然とした”眼”を知っている。

悲しみを秘めて漣のように揺らぐ”眼”を知っている。



故に今の物の怪の瞳が・・・・・・冷たい光を放つ無機質な眼が残念に思えて仕方ない。
その眼を向けられる自分としては悲しさもこみ上げてくるのだが・・・・・・・・・・。


「それだけ」

「・・・・・・そうか」


そう言葉を締めくくった昌浩に、勾陳は頷くことしかできなかった。



空が紅く燃え上がる。


それに反比例して凍えるよな風が肌を刺す。



先に動いたのは昌浩。

見上げていた空から視線を戻し、勾陳へと顔を向ける。


「だいぶ冷えてきたね・・・・・・・そろそろ庵の中に戻るよ」

「そうだな・・・・・・・また体調を崩してしまっては大変だな。もうすぐ太陰達も食料調達から帰ってくる、そうしたら夕餉としよう」


昌浩の言葉を皮切りに、二人は立ち上がる。
昌浩の顔色を窺えば、些か青ざめている。

少々長話しすぎたか・・・・・・・。

内心しまったと思いつつ、昌浩に庵の中へ入るよう促す。

昌浩はそんな勾陳に素直に従う。
庵の中に歩を進めつつも勾陳に向かって愚痴めいた言葉を漏らす。


「う〜ん・・・・・一人だけ夕餉ってのも寂しいというか、つまらないというか・・・・・・・」

「仕方ないだろう?体力を回復させるにはとにかく食べて寝る。これが手っ取り早い方法だ。我々は物を食べずとも生きていけるが、お前達は違う」

「そうだけど・・・・・・」

「お喋りはここまでだ。・・・・・・少し横になっていろ、些か顔色が悪い」

「・・・・・・わかった」


筵の上に横になった昌浩に、勾陳は袿をきちんと掛けてやる。
昌浩はそんな勾陳の様子に眼を細めつつ見ている。



昌浩を寝かせた勾陳は、横になっていることを厳命して再び簀子へと出て行った。



昌浩は勾陳の姿が見えなくなってから、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
そして静かに眼を閉じた。

閉じた瞼の裏には煌々と光を放つ”紅”があった――――――。







一方、外へ出た勾陳も静かに息を吐き出していた。


まったく、晴明の孫とはよく言ったものだ・・・・・・・・。

言葉に出さずに、内心で呟く。

弱音を吐かない頑固さも、他人に向ける優しさも、類似しているものは多くある。
そのどれもが似通いすぎていて逆に切なくなる。

いくら元服したとはいえ、自分達から見ればまだ子ども。
あの歳であそこまで融通がいいのも困り者だ。
少しでもいいから我が儘になってくれればいいと・・・・・・・そう思わずにはいられなかった。


頬を撫でる風を感じながら静かに瞑目する。









願わくば、彼の少年に一条のぬくもりの光が差すように――――――。









空が黄金色に染まる。














※言い訳
しばらくぶりに薄氷の瞳シリーズをupしました。よかったら、皆さんご自由にお持ち帰りください。
今回は勾陳編です。
うーん、情景描写が段々似通ってきてるなぁ・・・・・・なかなか難しい。
昌浩の話す内容も同じにならないように頑張って書いたのですが・・・・・・・やっぱり似たようなものになってしまった気がします。要修行ですね。
次からは多分独白になるんじゃないかと・・・・・・。残りはもっくんと昌浩だな。

2006/3/9