彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?








  薄氷の瞳


















迫る宵闇色の帳。



木々の間からは薄く輝きを放つ月が覗いている。



夜気を孕んだ風は、いくら春といえども冷たいものである。






空の色は紺。そして僅かな残光を残す茜色とその境で交じり合う翠。


日が沈んであたりが暗くなる暮れ方。






そんな夜の足音が聞こえてくる時刻に、物の怪は庵の屋根上で空を眺めていた。

辺りには物の怪以外の気配はなく、他の神将達は皆庵の中に入っている。

何故物の怪は中に入らないのかというと、居心地が悪いからである。



自分が傍にいると皆良い顔はしない。

同じ闘将である勾陳や六合はそうではないが、それ以外の者は皆一様に体を強張らせるか厳しい視線を送ってくる(後者は数名のみ)。

いらぬ不和を招くのは本意ではないので、こうして一人少し離れた場所に控えている。



自分が今、どうしてこの様な状況に陥っているのかを顧みる。



目を覚ましたら何故か見知らぬ所にいた。

隣には同じ凶将の勾陳がいて、普段は向こうからもこちらからも近づくことがないような同胞達がいた。

そして自分の知らない子どもがいて、それが晴明の孫だと言う。

何故か同胞達は子どもとそれなりに交流を持っていて、会話をする程度には知れた仲。

極めつけは、何故だか普段は決してとることはないような姿をとっている自分がいて、それは晴明の命令によってとっているものだと言う。



はっきり言うと訳の分からぬことだらけだ。身に覚えが全くないことばかり。

いくら晴明の命令とはいえ、子どもの子守などご免被りたい。というか絶対に撥ねつけているはずだ。

では、何故自分はここにいる?

こんな命など無視してさっさと異界に帰ればいい。

そう思うのに、思いに反して動こうとしない自分がいる。

それがまた不可解なことで、怪訝に思っていること。



本当にわからないことだらけである。



そして気になることがもう一つ。

それは自分が知らぬ間に誕生していた子どもの存在。



初めて見た子どもは眠っていた。

それからしばらくの間は眠りっぱなし。

目を覚ましてからも床から起き上がることが出来ず、物を食べることも困難で、衰弱の一途を辿っていた軟弱な子ども。

最近になって数刻の間は起きていられるようになったが、それは体調の良い時の話。

体調が優れなければ、ずっと床に横になっている。



これが自分から見た子どもの様子である。

勾陳からは晴明の孫だと聞いていたが、正直言って怪しいものだ。



子どもはどうやら見鬼の才がないらしい。

今は弱っているので確かなことはわからないが、霊力の方も同じ安倍の者たちの中では劣っているように感じられる。

どんな理由で体調を崩しているのか知らないが、体も左程丈夫そうには見えない。

精神面を見ても脆弱そうで、はっきり言ってこんな子どもが晴明の血を引いているとはとても思えない。


誰かが晴明の後継であると零していたのを聞いたような気がするが、笑わせる。

こんな並以下の力しか有していない子どもがあの晴明の後継など、大言壮語も甚だしい。

そんな戯言を叩く口などこの俺が塞いでやる。

主は安倍晴明ただ一人。後にも先にもたった一人、後継など必要ない。



そこまで考えた物の怪は、ふと子どものことを思い出す。



顔などあまりよく見ないのではっきりと記憶には残っていない。

思い出されるのは今にも揺らぎそうな瞳。ただそれだけである。


なにも記憶に残ることが無い中で、たった一つそれだけが心に残っている。


見鬼の才がないはずなのに、何故か自分の姿だけははっきりと捉える瞳。

どんなに身を隠そうとも、必ず見つけ出すのだ。

そして見つけ出した後には必ず瞳を揺らげる。


嫌なのなら見つけ出さなければいいのに・・・・・・・。


最初の頃は―――いや、今でも思っている。

しかし、ここ最近はそれ以外にも思うことがある。


何故そんな眼で己を見つめるのだと―――――――。


瞳を揺らげるのは自分のことが恐ろしいからだと思っていた。ただそれだけなのだと・・・・・・・。

事実、晴明を除いた他の者達は、自分のことをそういった目でしか見ない。


なのにあの子どもの眼には、様々な思いが複雑に交じり合っている様に見えた。

哀愁や切なさ、苦しさ。そして恐怖からではない―――何かを怖がっているような懼れ。

とにかくよくはわからないが、いろんな感情が混ぜこぜになった眼をするのだ。

自分は感情というものに乏しいので理解し難いが、皆が向けてくる視線とは異なっているのだ。


正直言って、何故そのような視線を自分に向けられるのか理解できない。向けられる謂れがないのだ。

自分とその子どもは初対面のはず・・・・・・・・・・。



あぁ、本当にわからない。知らない。

わからないといえば、この姿もそうだ。



白い毛並み。

紅い眼。

首を一巡する勾玉のような突起。

猫のような体躯。


それは誇り高い神将の姿からはかなりかけ離れた異形の姿。

いつの間にこのような姿をとったのだろう?

間違っても自分がこのような姿をとるはずがないのに・・・・・・・・。

本当に”謎”の一言に尽きる。






そこで肺に溜めていた息を吐き出す。

力の篭っていた肩が、疲れたように力なく下がる。






疑問が尽きることはない。

逆に次から次へと湧き上がってくる。






すべての元凶はあの子ども。

言葉ではなく、眼で訴えかけてくる子ども。


揺らぐ瞳を向けられて、自分はつきりと心が痛むのだ。

それに気づいた時には愕然とした。


自分はそんな感情など知らない。わかるはずがない。


心に痛みを感じるなど・・・・・・・・初対面の子どもに感じるはずがないのだ。

そんなのおかしい。



しかし、そう思うと同時に、心の底で叫ぶ声が聞こえる。


”違うのだ”と。


何に対して”違う”のかよくわからないが、確かに心の奥底にある魂がそう叫んでいる。訴えているのだ。


己以外に届くことは無い、悲鳴のような叫び声。


自分は気づかない振りをして耳を塞ぐ。

気づいてはいけない・・・・・・・気づきたくないのだと、無意識の内に心に蓋をする。

気づいてしまったら最後、立ち直ることができないのだと勘が告げるのだ。















だから目を閉じ、耳を塞ぎ、心に蓋をしよう。










己のために










お前のために










”真実”から眼を背けよう。










いっそ残酷なほどに優しい夢の中で微睡んでいよう。










夢から覚めるまで・・・・・・・・・・・・・。





















閉じ込められた想いは届くことはなく。










必死に伸ばした掌は何も掴むことはなく、空をきる。




















あなたの本当の想いはどこですか?





















※言い訳
29000hit記念フリー小説。薄氷の瞳第五弾!!皆さん、どうぞお持ち帰りください。
今回はもっくん・・・・というよりも騰蛇?の独白です。
きっとあの頃の騰蛇の心情はこんなだったんだろうと想像して書きました。
終わりの方は完璧に妄想の域に入ってますね;;なんだこの文・・・・・・・・・・・。
書いた本人もよくはわかっていなかったり・・・・・あはははは。
残りは昌浩だけになりましたね。
よしっ!力入れて書くぞぉ!!!!

2006/3/23