彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?








  薄氷の瞳









閉じた目を開ければ、目に映るのは黒。






あらゆるものを飲み込む漆黒の世界。






それを見るともなしに自分は見ていた。






自分は今目を開けているのか、閉じているのか。
そんなことさえわからない。


「悪しき夢、幾たび見ても・・・・・身に負わじ・・・・・・・・・」


無意識のうちに口から零れる言葉――――。
死の淵から帰ってきて以来、眠れぬ夜に幾度となく唱えてきた呪。
自己暗示にも似た、思いを乗せて唱える言の葉。

その言の葉を言い聞かせた相手の姿を思い出す。




白の毛並み、夕焼け色の瞳、額を飾る花に似た文様、猫のような体躯。


どれほど恋焦れただろう・・・・・・・。


風になびく紅い髪、煌く金の瞳、褐色色の肌、燃え上がる炎。


どれほど




自分があれ程求めていたものは帰ってきた。
己を総て賭けて取り返してきた。

そして帰ってきた大事な、本当に大事な存在。




そして忘れた。

”昌浩”という存在を―――――。




忘れていいよと自分は言った。
これ以上傷ついてほしくなくて、自ら忘却を望んだ。

それが例え自分にとっては酷く辛く、苦しく、悲しいことであっても・・・・・・・・・・・・。


あの優しい瞳が悲しげに揺れるのが嫌だったから。

あの優しい瞳が痛みに曇るのが嫌だったから。

あの優しい瞳が孤独と絶望で凍りつくのが嫌だったから。


だから自分は望んだ。
己という存在の忘却を――――――。


冷たくなった白い身体を掻き抱いたとき、そんな利己的にも似た思いで言葉を紡いだ。



これは自分の独りよがりな想い。



だから、今こうして胸を抉るような痛みもそれ相応の報い。

凍てついた瞳を向けられるのも、抑揚のない声で無感動に告げられる言葉も、とても近くに・・・すぐ傍にいても遠くにいるこの関係も何もかもが自業自得なのだ。


望んだこと。望まなかったこと。


正反対の思いは表裏一体。
それが真実。
どちらとも偽りのない本心。





なのに・・・・・・・・・・・・・。





どうして・・・・こんなに辛く感じるのだろうか。


眼、言葉、態度、そして心。


その全てから拒絶されることに、こんなに痛みを・・・・哀しさを感じるなんて――――。






死の淵から還ってきたすぐの頃。
そう、しばらく起き上がることもできず、食べ物の摂取も容易にできなかった頃。

病臥した己のすぐ傍で放たれた言葉が、今も鮮明にそして恐ろしいほど強い威力でこの耳に付き纏って離れない。



『――――ここで死ぬなら、それだけの器でしかなかったということだろうさ』



熱を伴わない、とても淡々とした声音で紡がれた言葉――――――。

それを自分は聞いていた。




―――――涙も出なかった。

あまりにも哀しすぎて、あまりにも切なくて・・・・・・・涙さえも一瞬にして乾いてしまった。いや、凍り付いてしまったのだろうか?

ボロボロに傷つき、血を流していた心に氷の杭が打ち込まれる。


重い衝撃。

真っ白に染まる思考。


息が詰まる。
閉じた瞼の下の目は実際に見開かれなくとも、限界にまで大きく瞠られていた。





≪―――――――っ!!!≫





凍てついた思考とは別に、その心は何かを叫んでいた。

心の中の己は必死に手を伸ばしていた。
掴んでくれる手がないことを知りつつも――――――。





それからは、なるべく早く元気になれるように食事を取るようにした。


その程度の器かと見限られるのが怖かったから。

無機質な眼さえも向けられなくなるのは耐えられなかったから。

そして何よりも、約束を守りたかったから・・・・・・・・・。



最高の陰陽師になる。



何事を措いても譲れない、叶えたい約束。
何をも犠牲にはしない。そんな陰陽師に・・・・・・・・。

今回はその約束を違えそうになった。いや、違えようとした。
結果的には己は現に戻ってきた。
見鬼の才という代価を払って。


己の無力さに唇を噛み締める。
力が足りない。
力が、欲しい。
何者からも守ることが、守り抜くことができるほどに強い力を―――――――。


そうすれば、あの優しい瞳が傷つくことも、悲しみに揺れることも、悔しさに曇ることも、寂しさに凍てつくこともなくなるのではないかと・・・・・・・・思う。
傲慢な考えだとは思うけれども、何かが変わっていたかもしれないと無駄な思考に囚われる。過去は変わりはしないというのに・・・・・・・・・・・・・・・・。

そんなことを考えられるのも、”今”があるから。
一緒に同じときを生きられるから。
例え零に等しくとも望みがあるから。

だから立ち上がれる。

前を向いて一歩一歩、ゆっくりとだが歩みだせる。

そうやって弱気な己の心を叱咤する。
傷つき血に濡れる心に鞭を打ち、現実から眼をそらさないよう己を追い詰めていく。


逃げることは決して許さない。


これが己の望んだ結果だということを、否が応でも突きつけるのだ。


それがきっと、理を曲げるほどの我侭を言った報い。
一生背負っていかなければならない罰なのだ。

覚悟はした。
幼子のように泣き喚く心の本心を理性で捻じ伏せ、今日もその名を呼ぶのだ。



『騰蛇』と―――――――。



言葉に詰まりつつ、哀しみを含んだ声で・・・・・・・・・・。
けれど相手は気づかない。いや、気づかせない。



気づいて欲しいけど、気づいて欲しくない。

自分に眼を向けて欲しいけど、向けて欲しくない。

傍にいて欲しいけど、いて欲しくない。


記憶を取り戻して欲しいけど、取り戻して欲しくない・・・・・・・・・・。




相反する想い。
しかしどれも本物。


傷つくことを恐れる心と、傷ついてまでも求めようとする心。


どちらも切り捨て難い、切り捨てられない”真実”。




思いは届くことはない。

己が届けようとしない限りは。




想いの欠片は心の底に降り積もっていく。

日の光に晒されないから溶けることもない。

永久凍土の場所。



ただ、しんしんと積もり行くのみ。

それを知るのは己ただ一人だけ――――――――。
















雨の音。









切ないほどに必死に叫ぶ声が反響する。









心の中ででも雨が降っているんだろうか?









ではその叫び声の持ち主は?









気づきたくないと、気づかないでと心の奥深くから聞こえる声。









我武者羅に求める心は凍りつき、心の底へと沈んでいく・・・・・・・・・・・。









時折、目の端を掠める白き幻影。












それは未だ捕まらない。












黒の世界に陽光はまだ届かない。












想いは暗闇の底で眠りにつく。

















”真実”を見つけ出してくれる人は誰ですか――――――――?
















※言い訳
はい。とうとう”薄氷の瞳”シリーズもラストになりました。今回は昌浩編です。
いつもの如く、気に入って頂けたらどうぞご自由にお持ち帰りください。
・・・・・むぅ。なぜか今一の出来になってしまった・・・・。ラストなので力入れて書こうとしたのに;;
あまり納得のいかない文章に(泣)。本当はもっと心情的に書きたかったんだけどな・・・・・・・・・。
ところで、昌浩はきっともっくんの言葉を聞いていたんじゃないかと思うんですよねぇ〜。まぁ、私個人の勝手な解釈といいますか、そうだったらなぁ・・・・・という希望です。でも、昌浩を苦しめたいわけではないんですけど;;”これって絶対起きてたんだと思うんだよね!!”と私は思ったので、そういう設定だと思って読んでくれたらなと思います。(いや、もう読み終わったから・・・・・)
まだまだ未熟者ですね。要精進。要修行。要努力!!!ガンバリマス。

2006/4/7