視界に映るは墨色の空間。 耳に届くは己の呼気。 そこは閉ざされた世界。 外の大空を知らぬ小鳥は、幸せか否か。 それを決めるは小鳥自身―――――――――。 |
朧月夜の還る場所〜参〜 |
広い広い、そして薄暗い空間。 三方が壁、そして一方が格子に閉ざされた部屋の中央に、ぽつりと鎮座する影が一つ。 その影の正体は、まだ片手にも満たない年月しか生きていない頑是無い幼子であった。 子どもは身動き一つせず、ただ茫洋な視線を虚空に向けるのみであった。 そんな子どもの姿は、さながら精巧に作られた人形のようであった。 墨色の世界に人の気配など皆無に等しく、ただ子どもの呼気だけが無音の世界を震わせた。 カシャン。キィ・・・・・・・・・・。 ふいに音が子どもの耳へと届いた。 子どもは虚空を眺めることを止め、音の発生源へと視線を動かした。 案の定、視線の先には年嵩の女がいた。 女は食事の時間ですと、そう告げた。そして手に持っていた膳を、子どもの前にへと運んでくる。 ありがとう。と、子どもはたどたどしい口調で言葉を紡ぐ。 女はそんな子どもの言葉に薄く笑みを浮かべていえと、そう一言だけ答えた。 子どもは行儀よく手を合わせた後、目の前の食べ物を口へと運んだ。 女はそれの様を、ただ黙って眺める。そして子どもが時折問いかけてくる言葉のみに返答を返した。 子どもは女の返答を聞くと、一応納得した風な様子を見せ、再び食べ物を口へと運ぶ。 そんな遣り取りがこの二人の日常であった。 子どもの世界はこの薄暗い空間と、必要最低限の世話をする目の前の女のただ二つのみであった。 子どもが物心つく頃には、すでにこの空間にいた。 子どもの中に時間という概念はなく、ただ黒の世界を眺めることしかできなかった。 そんな不変の世界で、唯一この女の存在だけが可変であった。 女は子どもに言葉を教え、字を教え、そして世界に存在するあらゆるものに”名”というものがあることを教えてくれた。 無論、片手にも満たない年の子どもに難しい言葉や文字など理解できるはずもなく、本当に必要最低限のことさえ覚えていればよかった。 その最たるものが『あいさつ』というものやらで、そのあいさつにも”おはよう”や”ありがとう”など様々な種類があることを知った。 その『あいさつ』さえ覚えてしまえば、それ以外のことなど子どもにはいらぬ知識であった。 子どもはこの薄暗い世界から出ることは一生の内にはないと、女から教えられた。しかし子どもには女の言っている意味を理解することなど、到底できなかった。 子どもは『外の世界』というものが一体何なのかを知らない。知らないからこそ興味を持つことはないし、興味を持とうとは思わなかった。 女が一体どこからやって来るのか、その疑問を追及したいとも思わない。 子どもの世界とはこの四角く閉じられた空間であり、そしてそれで全て完結していた。 決められた空間の中でのみ生き、その中でのみの生しか知らぬ子どもにとって知識とは不要のものであった。 ただ、女が『外』から持ち込んでくるもののみには、多少なりとも意識を向けた。 それが自分にとっては目新しいものであり、それが不変の中の可変であったからに過ぎなかった。 ただ、それだけ。 子どもは『外』に対しての反応は酷く淡白なものであったが、その情緒面が欠けているかというと寧ろ逆であった。 表情豊かとは決して言えないが、それでも唯一の可変である女から『感情』というものを学んだし、女の方もまた自分のほんの微々たる情緒の揺れに対して、どのようなものであるのかを教えてくれた。 もちろん子ども特有の”何故”を問うことだってしばしばあった。ただし、その”何故”の対象が己の目の前に現れた見慣れぬものに対してのみ限定されていただけのことであった。 そうして時は流れていく。 子どもが片手を満たすか満たさないか位の年になった頃、子どもの不変に可変が起こった。 女が子どもを格子の外へと連れ出したのだ。 子どもは始めてみる『外の世界』に圧倒された。 それまで自分が生きてきた空間が、とてもちっぽけなものであったことを理解するくらいには・・・・・・。 女は子どもの手を引いて走る。しかし、生まれてこの方”走る”という行為をしたことがない子どもの身体はそれについて行くことができない。 足をもつれさせ、呼吸が跳ね上がった。 しかし、そんな状況も長くは続かなかった。 唐突に、女が自分の目の前で倒れたのだ。 そして倒れた女の先に、キラリと光る刃物を持った男がいた。 子どもは緩慢な動作で倒れた女へと視線を落とした。 赤い水が女から大量に流れ出てきていた。 子どもはそれが『血』と呼ばれるものであることを知らなかった。 ただ、呆然とした様子で流れ出る赤を見つめるしかなかった。 女は動かない。地へと伏したまま、二度と子どもの手を引くことはなかった。 『死』という概念を持たぬ子どもは、しかし女が再び自分へと触れてくれることはないということを本能で理解した。 そしてそのことを理解したと共に、己の視界が歪みを見せた。 つぅ・・・・と頬を流れる温かい水を、子どもは何であるのかを理解できなかった。 それが『涙』と呼ばれるものであるということを知るのは、随分後になってからのことであった。 その後、子どもは再び『内』へと連れ戻されるが、あの墨色の世界に戻されることはなかった。 その代わりに与えられた世界は、墨色の世界よりは狭い、しかし『外』の景色をみることができる静かな場所であった。 人の気配は遠く霞む程度位には感じられたが、それでも子どもの前に姿を現すのは女一人であった。その女も、子どもがよく知っているあの女ではなかった。 そしてまた静かな、それでいて代わり映えのない時間に戻ると思っていた。子どもはそう信じて疑わなかった。 が、一年も経たないうちに、再び大きな可変は訪れたのであった。 子どもの眼にこびり付いたのは赤。 次第に大きく広がっていく赤い水。 赤という色彩のみが子どもの視界を染め上げていく。 赤赤赤赤赤。 赤い海が広がる中、子どもはその赤を生み出した張本人の姿を見た。 「あ・・・・・ぁ、ああああぁあああぁぁぁっ!!!」 子どもの喉から、あらん限りの絶叫が迸った―――――――――。 ※言い訳 やばい、今回のお話に名前らしい名前が出てこなかった;;それよりも、こんなに長く書く予定がなかったのに・・・・・。何かあまりにも抽象的な文章になってしまった気がします。次から本筋に戻りますので・・・・。 2007/3/12 |