真名を呼ぶもの
















「では、我がお前に名を与えよう。今日からお前の名は『煌(こう)』だ」


”自分”が目を覚まして初めて言葉を交わした相手は、しばしば逡巡した後にそう言葉を紡いだ。













記憶をほとんど失くし、どこに行く当てもなく途方に暮れていた自分に手を差し伸べてくれたのは『金』と『銀』の色彩を持った妖だった。


「種族は違えど、お前は確かに我の眷属。何も惑うことはない。我と共に来い」


鮮やかな笑みを口元に浮かべ、その妖は力強くそう言った。
もちろん自分は差し伸べられたその手をとった。
ほとんどの記憶を失くし、どこへも行く当てが無かった自分はそうするしかなかった。
己の脳に僅かに残された過去の記憶の欠片達が冷たく迫ってくる恐怖に後押しされたというのもある。

孤独、苦しみ、嘲り、悲しみ、絶望・・・・・・・。

どうしてそんなものしか残っていないのかと、誰振りかまわず問い詰めたくなる。
何故と、答えを求めて手が宙を彷徨う。
しかし、その疑問に答えを返してくれるものなどどこにもおらず、刃をその首に添えられたようにただ痛いほどの冷たさが胸に残った。

銀色の妖の手をとってからしばらくは、ただ無気力に空っぽの心で時を過ごした。
己の心を構成する『何か』がごっそりと抜け落ちてしまったかのような喪失感。
己を成り立たせる土台の記憶もなく、また感情を生み出す心もその機能が停止している状態では、自分という存在を確立させることができなかった。

そんな自分の様を見かねたのか、銀色の妖が自分へと話し掛けてきた。


「子よ。お前は何を望む?」

「・・・・・・・望む?」


妖の唐突な問いに、自分はただ不思議そうに瞬きを繰り返すことしかできなかった。


「そうだ、望むことだ。望みとは生への一番の動力だ。それがあれば強く生きていける。・・・・・お前は何がしたい?」

「俺の、したいこと・・・・・・・・」


真摯に真っ直ぐと見つめてくる金色の瞳を、茫洋な限りなく黒に近い焦げ茶色が見つめ返す。


「したいこと・・・・・望むこと・・・・・・俺が、求めること・・・・・・」


妖の問いに答えるため、過去を失った子どもは己の内へとその視線を向ける。
が、返ってくるのは虚無にも似た底無き闇。
『何も無い』ことに、子どもは落胆したように息を吐く。

どうして何も無いのだろう?どうして・・・・・・『自分』という存在がないのだろう?主体を握るべきその存在が・・・・。






無い。

無い。

何も、無い。

無いのなら――――――













新たに作ってしまおうか?













その考えを思いついた瞬間、子どもの心に一条の細く弱々しい光が差し込んだ。


子どもは内心で鮮やかな笑みを浮かべた。それはもう、とても嬉しげな笑みを――――。





見つけた。

見つけた。俺の望みを!





「・・・・・・・うん、これが・・・いい」

「ん?何かあったか?お前の望みが・・・・・・・・」


ふいにぽつりと言葉を零した子どもに、銀色の妖は急かさずに再度問う。
それに子どもは記憶を失くしてから初めて綺麗な笑みをその顔に浮かべた。そして己が望みを口にした。


「うん、俺の望み。それは俺が『俺』として在ること。俺自身を・・・・・・俺という確固たる存在を望む!」

「ほぅ?なかなかに面白いことを望む。『お前』と言う存在の確立か・・・・・・・」

「そう、俺には今の俺しかない。過去の俺がどんな奴だったのかがわからない。・・・・・わからないものに縋っても、何も返ってくるものがない。なら、俺は俺として新たな俺になりたいっ!」


誰も己を導いてくれないのなら、俺が俺を導こう。

それは、過去を失くした子どもの精一杯の自己主張。

確固たる決意を秘めた眼で見つめてくる子どもを、銀色の妖は眩しげに見つめ返した。
その口元を弓なりに形作り、子どもの望みを叶える手伝いをするべく開いた。


「では、我がお前に名を与えよう。今日からお前の名は『煌(こう)』だ」

「煌?」

「何者にもその存在を掻き消されることのない、煌々と輝く光であれ。それにちなんでお前に『煌』という名を贈ろう」

「何者にも存在を掻き消されることのない・・・・・。うん、嬉しいよ。俺は煌、煌だ!」


それが『煌』がこの世に生まれた瞬間であった。


「それともう一つ。お前に特別な贈り物をあげよう」

「特別?・・・・何?」

「我の真名(まな)だ。・・・・・・我が名は大妖・九尾。そして真なる名は『久嶺』」

「く・・・りょう?」

「そうだ。久嶺―――永“久”(とわ)に数多ある妖の“嶺”(みね)に君臨する者。それが我が名だ」


そう言って銀色の妖―――九尾こと久嶺は鮮麗に笑んだ。
煌はその笑みに、王者たる覇気を見た。









「我しか知ることのない名。それを呼ぶことをお前に特別に許そう」








その時、生涯決して忘れることができない閃光が、煌の心に焼き付いた。

そして悟った。
自分は自分が消える最後のその瞬間まで、この孤高な存在から離れていくことはないだろうと――――。










そして新たな道が始まった。












※言い訳
まず初めに、このお話は紅月朔良様のみお持ち帰りが可能です。
今回のお話は『沈滞の〜設定で九嶺と煌(昌浩)の大陸に来てから比較的すぐの日常のお話。シリアスかほのぼの。』ということでしたので、このように出来上がりました。でも、これって日常ではない気が;;
ご希望通りのものになったのかは分かりかねますが、本当に・・・・・・。



2007/5/15