白い幻影は雨に濡れる





 声にならない声がする…。
  

  夜中。漆黒の帳が都全体を覆い尽くしている時間。
  安倍邸の一角の部屋、その部屋の主である昌浩はうっすらと瞼を開いた。

         
 ―――何も見えない。


 灯は寝る時に消したので、部屋の中は当然のことで真っ暗だ。
 重い瞼を先程よりわずかばかり上げて、真っ暗な室内に視線だけを走らせる。
   
 「――――――――っ」
 
 微かに身じろきしただけで腹部に激痛が生じる。

 「―――――――――」

 息をつめて、気の遠くなりそうな痛みをやり過ごす。
 痛みのあまりに涙が出るかとも思ったが、その考えとは裏腹に昌浩の瞳は渇ききっていた。
 虚空を彷徨う視線は、―――しかし何も捕らえることができない。


 ―――何も見えない。
                             

  あの白い姿はどこだ。
 真っ暗な部屋の中であろうとも、漆黒の闇が続く大路であろうとも、あの寒い、永劫に続くか
 とも思われる暗黒の世界の中であろうとも、あの白い体駆は――夕焼けの瞳はいつでも見
 えていたのに。そばにいてくれたのに―――――。

 なのに見えない。あの暖かなぬくもりが、息づかいが感じられない。

 『ん?どうした?』

 気遣わしげな少し高めの、あの声が聞こえない。
 見つめる先など存在しなく、在りはしないものを見ている瞳が冥い光をはじくだけ。

 『失せものの相が、でているぞ』

 気をつけた方がいい。と注意してくれた人がいた。
 注意をしてもらったのに、されていたのに失してしまった。
 いつも傍らにいるのが当たり前で、それが自然のことで、だから失してしまうなんてちっとも思
 わなくて―――――。

 夢を見た。物の怪がどこか遠くへ行ってしまう夢。
 不安のあまりに目が覚めて、近くで眠っていた物の怪をあわてて抱き寄せた。
 そんな自分をなだめてくれた物の怪。
 呼んだら応えると言った。

 『―――もっくん!!』

 心からのその叫び声は声として形を成さず、喉の奥でわだかまる。
 浅い、少し速めの息づかいしか漏れない。
 その名前を何度呼んだことだろうか。
 何度呼んでもそれは心の中で反芻し、声になる前に霧散する。


 あれ以来、心の傷口からは血が流れ続けている。


 先刻、死の淵から目覚めた昌浩は、怪我を押してまで貴船の祭神に会いに行った。
 そこで明かされた、今まで自分の知らなかった紅蓮の過去。
 そして、突きつけられた重い三つの選択。
 騰蛇は帰らないと彼の神は言った。
 救う手立てはない、騰蛇の魂は正気に呑まれたと。
 その事実を突きつけた上で彼の神は聞いてきた。


 お前は果たして、何を選ぶ?


 選択肢は三つ。選べるのは一つ。だが三つの内の一つの選択肢は神の恩情、選ぶことはで
 きない。そして残る二つの内の一つも決して選んではならない。
 選べる道は一つ。一つしかないのに―――――。
 見開かれた瞳の端を白い幻影がふとよぎる。
 あきらめきれない。悪あがきをする自分がそこに在る。
 認めたくない。あきらめたくない。もう二度とあの優しくて、ほんのちょっぴり切ない瞳を見るこ
 とができないのだと。

 重く鈍いいたみが走る。

 それは腹部にうかがわれたきずからか、それとも今は軽く握りしめられた手の内にある傷か
 らか、神に突きつけられた重い選択に悲鳴を上げる心か―――――。

 違う。重く鈍い痛みをかかえるのは、あの優しい神将が自分を傷つけたということを知った心
 だ。

 六花の降りしきる中、決死の思いで己の過ちを話してくれた物の怪。
 あの時でさえ、物の怪の白い体躯はあんなに小さく、儚く、消え入りそうだったのに。
 すべての過ちを昌浩に話したわけではなかったのに。
 常に切なさを帯びた夕焼けの瞳をしていたのに。

 なのに、運命はまだ彼を苦しめ足りないのか?
 未来永劫消えない傷を重ねさせてまで縛り続けたいとでもいうのか?
 血濡れという名の鎖に。


 つい今まで夢を見ていた。
 物の怪の白い体を黒い闇が覆っていく様を。
 そしてはっきり見た。自分自身に対しての侮蔑と失望の翳り、それが物の怪の瞳に宿るの
 を。
 
 『もっくんのせいじゃない!もっくんは何も悪くない!!』
 声が嗄れる程に叫んでも、血の吐くような思いで叫んでも、闇に覆われていく物の怪には届
 かない。

 行くな!行かないで!!

 そう必死で叫んで手を伸ばしても、その白い毛並みに近づくどころか、どんどん離れていく。
 最後にはその白い姿は黒い闇に溶け込んでしまった。
 そこで眠りから覚めた。そしてすぐにあの白い姿を探した。
 この前と同じように、自分の傍らで眠ってはいないかと。
 交差させた腕におとがいをのせて、器用に寝ている姿を。
 そう淡い期待をのせて彷徨わせた視線。しかし、やはりと言うべきか物の怪の姿はそこには
 ない。
 わかっている。きっと物の怪は自分の元へは帰ってこない。
 もっくんはやさしいからなぁ…。
 昌浩の顔に僅かな微笑が浮かぶ。しかしそれはほんの一瞬の出来事で、すぐに表情が曇
 る。
 だからきっと自分を許さないだろう。昌浩を傷付けてしまった自分を――――。
 未来永劫、癒えない傷を負ってしまった物の怪。
 そんなことは気にしなくていいよと言ってあげたい。自分はまだ生きている、だから…。
 とても優しい金の眼を思い出す。いつも自分のことを心配してくれて、怒ってくれて、誰よりも
 自分のことを思ってくれていた心優しい神将。

 声が聞こえた。
 声にならない叫び声が。軽く触れればあっさりと溶けて消えてしまう氷の花片のように、儚く
 消える叫び声。
 いったい誰の叫び声だろう?あの優しい神将か、それとも自分自身?はたまた、他の誰か
 か――。

 軽く息をつき、開いていた瞼を閉じる。
 瞼を閉じればあの神将の姿が、白い物の怪の姿が浮かび上がる。
 なぜか雨が降っている。その中に物の怪の姿が見える。
 雨に濡れている物の怪の後ろ姿。その後ろ姿がとても寂しそうに見える。
 痛いときには痛いって言ってくれればいいのに………。

 そこで昌浩の思惟は途切れる。
 夢さえ見ることのない深い眠りへ。聞こえるはずのない雨の音を聞きながら……………。






 ※言い訳
 今回のお話は、実は私が初めて書いたものなのです。
 え?じゃあなんで今頃になってUPしたかって?それは色々と事情がありまして・・・・(どんな
 事情だっ!!)
 えっと・・・・この話は、山紫水明のサイトにもUPしてある話なので、もしかしたら読んだことが
 あるぞっていう方がいるやも・・・・。

 
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 2005/5/17