彼は笑う。






       心に負った深い傷を隠しながら。






       彼は笑う。






       忘れないでと痛切に願う叫び声を押し殺したまま。






       彼は笑う。






       どんな代償を払ってでも譲れない願いがあるのだと、






       薄氷を思わせる瞳で静かに、穏やかに、そして儚げに微笑むのだ。






       自分たちはそんな彼に何をしてあげられるのだろうか――――――?








  薄氷の瞳








       灯火もなく、月と星の輝きだけが光源である暗闇の中、少年は一人であった。


       耳に入るは木々を揺らす風の音。

       眼に映るはただ冷然と輝く月と星々。そして―――――

       すべてを飲み込む漆黒の闇。







       ここは人気の全くない山の奥。

       そこには放置されている庵が一つあった。


       普通なら人の気配など全くしないであろう場所に、一人ぽつんと少年がいた。
       先の戦いでひどく衰弱してしまったため、養生生活を送っている安倍昌浩。その人であ
       る。


       庵の簀子に片膝を立てた状態で座り、天を仰ぎ見ていた。



       「そのような所にいては風邪を引くぞ昌浩」


       空を見上げる昌浩の背に、弱冠高めの声が掛かる。
       声を掛けられた昌浩は、声が聞こえてきた後方を振り返る。


       「・・・・・・玄武?」


       振り返った先、昌浩の後方には昌浩よりいささか年下の風体をした黒髪黒眼の十二神
       将―――玄武が立たずんでいた。


       「いくら春とはいえ夜はとても冷える。まだ本調子を取り戻してない身体で長時間外に
       いれば、間違いなく体調を崩すぞ」

       「う、ん・・・・・・そうだね。ちょっと眠れないから・・・・・・・星、眺めてたんだ」


       玄武の忠告にも昌浩はかすかに苦笑を返すだけで、庵の中へ戻ろうとする気配がな
       い。

       その様子に玄武は溜息をつくと、一旦庵の中へ戻り、寝具代わりに使っている桂持って
       きて昌浩の肩にかけてやる。
       かなりの時間、外の空気に触れていたのであろう。昌浩の体は冷え切っていた。
       とくにすることもなく手持ち無沙汰だったので、玄武はとりあえず昌浩の隣に腰を下ろ
       す。

       そしてしばらくの間二人は簀子に腰を下ろして黙って夜空を眺めていた。



       「・・・・・・どうして、眠ろうとしない?」

       頃合を計らって玄武が口を開く。

       「ん〜〜?・・・多分、昼寝とかしてるから夜は目が覚めちゃうんだよ」


       視線は夜空に向けたまま、昌浩はやや間延びした口調で玄武の問いに返事を返す。


       嘘だ。


       玄武は口にこそ出さなかったが、その返事を否定する。

       昌浩が夜はあまり眠っていないことを彼の護衛についた十二神将(一部を除いた)全員
       が知っていた。
       ほんの少しでも物音を立てればあっさりと目を覚ます。本当に眠りが浅いのだ。
       そして睡眠時間の不足を補うため、日中はうとうとと昼寝をしているという見解が妥当だ
       ろう。
       生死の境から目を覚ましたばかりの最初の頃であったならその言葉にも納得できた
       が、頻繁とは言わないものの明らかにその回数が多いので、嫌でも異常をきたしている
       と気づかされた。


       「・・・・・・・・・・・・」

       「・・・・・・・・・・・・」


       そしてまたしばらくの間沈黙が続いた。


       「・・・・・・玄武は、さ」

       「―――?」


       昌浩は視線を宵闇に浮かぶ月に固定したまま、おもむろに口を開く。

       それまで共に夜空を眺めていた玄武は、視線を昌浩の横顔に移す。



       「もっくん、―――騰蛇のこと、どう思ってるんだ?」

       「どう、とは?」

       「う―ん・・・・・そうだな。―――太陰とか、騰蛇を前にするとなんだか緊張するみたいじ
       ゃない?だから玄武とかはそこの所どう思ってるんだろうって思ってさ」


       玄武もそういう所、あるよなぁという言葉はあえて口に出さないでおく。
       そんなことを言ったら、きっと玄武は困ってしまうだろうから。



       道返の一件以来、物の怪の昌浩に対する態度が豹変してしまった。

       昌浩の知っている物の怪と全く別人、とまでは言わないが、今までの様子と比較すれ
       ば明らかに昌浩に対する態度に変化があることが窺える。
       昌浩が知らない物の怪の一面を知った、というのが一番適した表現なのだろう。
       (ただし、神将たちにとっては今の物の怪の態度が長年見知っているものであり、昌浩
       に関しての記憶を失くす以前の騰蛇の態度こそが彼らにとっては正に青天霹靂であっ
       たが。)
       道返の件の前後で物の怪に違いがあるすれば、昌浩に関しての記憶が有るか無い
       か。
       ただこの一点に限るだろう。
       そのことを除けば物の怪は今までどおり、何ら変わりはないはずである。


       よく晴明の孫と自分をからかっていた物の怪。不器用な仕草の中でも自分のことを気遣
       ってくれる物の怪。暖かく、そしてちょっぴり切なさを秘めた優しい瞳を向けてくる物の
       怪。一日の内でほんの一瞬しか姿を見せない物の怪。感情を窺うことができない無機
       質な瞳を向ける物の怪。抑揚の無い声で淡々と話す物の怪。

       どの物の怪もまごうことなき彼であり、彼の行動である。
       それは常々行動を共にしてきた昌浩自身が一番分っている事だ。


       では、物の怪の態度がこんなにも違うのは何故だろうか?


       その疑問だけはどうしても自分の中で答えを見つけることができなかった。
       だから、自分より長い間共にいる十二神将の玄武に、彼の視点から見た物の怪はどの
       ようなものなのかを聞こうと思ったのだ。


       「・・・・・・・・・・・」


       思案する玄武を急かす訳でもなく、昌浩は返答を静かに待った。


       「どう、と聞かれても返答に窮するのだが・・・・・・多分、太陰と同じく心の何処かで恐怖
       を抱いている、と思う」

       あぁ、恐怖というより、畏怖と表現するのが正しいかもしれぬ。と、玄武は述懐する風に
       呟く。

       「・・・・・・・・・・・・・」

       「長年、十二神将として同じ時を過ごしてはきたが、それは同じ時を過ごしただけで、共
       に在ったわけではない。だから騰蛇についてこうだと述べられるほど相手を知っている
       わけではないと思うのだが・・・・・・・・」

       「・・・・・・・・・・・・・」

       玄武がぽつぽつと話をする間、昌浩は黙って聞いていた。

       「―――ただ、騰蛇に関してあえて感想を述べるのだとすれば、やはり怖い存在だとし
       か我には言うことができない。嫌いだとか、そりが合わないとかそういうものではなく
       て、ただ純粋に畏怖の念が先立ってしまう」

       「・・・・・・・・・・」


       昌浩はそこでようやく月から目を離し、玄武へと視線を移す。
       そこで玄武はふと疑問に思ったことを口にする。


       「昌浩・・・・・・は、今の騰蛇にそういうものは感じたり、しないのか?」


       少し前までの騰蛇はともかく、今現在の彼は決してとっつき易い相手ではない。
       自分達はそんな騰蛇を当たり前と見てきた。昌浩と共にいた時の彼が異常に見える位
       なのだ、昌浩に今の彼の冷たい態度は酷く耐え難いだろう。
       内心そう考えながら玄武は昌浩と視線を合わせながら向かい合う。
       昌浩は数度ゆっくりと目を瞬かせた後、口を開く。

       それは玄武にとって意外な返答だった。


       「怖い・・・・・・とは思ってないよ・・・・・・・。そうだな、確かに今のもっくんは前のような感
       情表現は全くないし、口数だってそんなに多くはないしね・・・・。確かにそういう所は違
       うように感じるけど、―――――もっくんはもっくんでしょ?それだけは絶対に変わらな
       いものだと、俺は思うよ」

       「騰蛇は・・・・・・騰蛇?」

       「うん、そう。だから今のもっくんを怖いと思ったことは一度だってない・・・・・・・・・・ただ」

       「ただ?」

       「―――ただ、俺のこと、見てくれないっていうのがちょっとだけ寂しいな・・・・・って思っ
       てしまうから」


       と、そこで今まで視線を合わせていた玄武は、かすかに揺らぎを見せる昌浩の瞳を見
       つけ、自分が失言してしまったことにようやく気づく。
       玄武は昌浩にばれない程度にそっと唇を噛み締める。

       昌浩は今の騰蛇が怖いか?

       そんなものは愚問だ。
       昌浩が騰蛇を怖いなどということは決して在り得ない。在る分けないのだ。


       「我が儘、だよね?忘れていいって言ったのは、俺なんだから・・・・・・」


       そこで昌浩はふっとかすかに笑む。
       そんな笑みを見て玄武は僅かに焦りを覚える。
       夜のせいか、月が彼を照らしているせいなのかわからないが、昌浩が今にも霞んで消
       えてしまいそうな錯覚に陥る。


       「昌、浩?」

       「ん?」

       存在感の希薄さに玄武は思わず声を掛けてしまった。

       「どうかしたか?」

       「・・・・・・・・・・」


       思わず声を掛けてしまったが、続ける言葉が思い浮かんではこない。
       そんなことはない、と否定してやれればどれだけいいだろうか。
       しかし、そんな言葉は昌浩には気休めにもならない。
       こういう時、思ったことを巧く言葉にできない自分に酷く苛立ちを覚える。


       「もう・・・・・これ以上、もっくんに傷ついて欲しくないんだ・・・・」


       昌浩はそう言って眼を半分ほど伏せる。
       かすかに覗く瞳に、優しさと憂いと哀愁が混ざり合って複雑に揺れているのを見つけ
       て、玄武は騰蛇に酷い憤りを感じた。

       昌浩はこんなに苦しんでいるというのに!!

       騰蛇が眠る昌浩の傍らで言い放った言葉を思い出し、ふいに遣る瀬無さが胸中に広が
       る。
       互いを想い合うが為、さすれど想いはすれ違ったまま。
       仲良く肩を並べていた二人。それは紛れも無い真実なのにどうしてこんなことになった
       のだろう?
       運命とは時に非情で、残酷なものであることをまざまざと突きつけられた気がしてなら
       ない。


       「だからこれでいいんだ」

       そう言って昌浩はふわりと微笑む。

       「―――――っ!」


       昌浩の笑みを見て、玄武は喉の奥で声を上げそうになるのを必死で抑える。
       泣き顔にも似た笑顔。
       そのような笑みを見せられて心穏やかにいれる者などいないだろう。
       それほどまでに純粋で透明な哀しい微笑み。


       「ふぅ、―――なんかかなり愚痴を零しちゃったなぁ・・・・・ったく、我ながら情けない。
       玄武もごめんね、俺の愚痴につき合わせちゃったりして・・・・・」

       「否・・・・・別に構わない。気にするな」


       急に調子を明るいものに変えた昌浩は簀子から腰を上げ、う―ん、と背筋を伸ばす。


       「じゃあ、俺はそろそろ寝るよ」

       「昌浩」


       そう言って庵の中へと足を向ける昌浩に玄武は声を掛ける。


       「何?玄武」


       名前を呼ばれて振り返った昌浩に、玄武は数瞬視線を彷徨わせた後、所々つっかえな
       がら言葉を紡ぐ。


       「もし、我でいい・・・のなら、これからも愚痴の聞き手、になろうか?」

       「―――え?」

       「誰にも言わず自分の内に溜め込むより、誰にでもいいから話してすっきりした方がい
       いと、思うのだが・・・・・・・・」


       今、これが昌浩に対して自分が言える精一杯の言葉だった。


       「うん・・・・・・ありがとう玄武」

       そのことを知ってか知らずか、昌浩は嬉しそうにお礼を言った。

       「それじゃあ、おやすみ」

       「あぁ、おやすみ」


       昌浩はそう言うと今度こそ庵の中へ入っていった。
       玄武はそれを見届け、そっと瞑目する。



       願わくば、彼の眠りが穏やかなものであることを―――――



       そして夜は更けていく。
       彼の者を見守るは天上に瞬く星
々と静かに輝く蒼い月のみ。













       ※言い訳
       久々のフリー小説になります。
       もし、気に入って頂けたならそのままお持ち帰りください。
       今回のお話は”焔の刃”と”真紅の空”の間にある空白の時間を個人的に想像して書い
       てみたものです。
       もしかしたらこんな感じに他の神将とのやり取りもその内書くかもしれません。(未定だ
       けど;;)

       2005/8/9