孤絶な桜の声を聴け〜2〜

                                                                         
  「うぅむ、どうしたものか…………」

  陰陽寮の一角で苦悶混じりの声が上がった。声の主は一人の陰陽生、藤原敏次であった。
  なにやら先程から思案に明け暮れている様子である。
  「まさか、こんなにも出られなくなった者がいるとは……これでは少し、夜警をする人数が足
   りないな」
  眉を少しひそめながら口の中でぶつぶつと呟いている。
  夜警を共にするはずであった者達の中で、何人か出ることができなくなってしまったのだ。
  「う〜ん、誰か他に出られそうな者はいないだろうか………」
  自分の知り合いの者達は皆それぞれの仕事で多忙、とのことなので夜警に誘うわけにはい
  かない。かといって他の省庁の人を誘うわけにもいかず、困り果てている次第なのである。
  「あと、せめて二・三人は必要なのだが………」
  とそこである一人の人物の顔が脳裏に浮かび上がる。大陰陽師、安倍晴明の孫にして天
  文博士である安倍吉昌の息子―直丁、安倍昌浩。
  病弱なきらいがあったのか、最初の頃は休みがちであった昌浩だが、最近ではほとんどな
  くなり、真面目に仕事をこなしている。
  つい最近、出雲の旅路から帰ってきたばかりなので、滞っていた仕事を今は懸命にこなし
  ている。

  そうだ、あの直丁でも誘ってみるか。

  ふと思いついたことだが、我ながらいい考えだと思う。
  直丁の仕事は書物整理や暦の書写の仕事など様々な雑用である。きっと雑用以外の仕事
  はしていないだろうし、これから先いずれの内にはすることなので、今回参加しても問題は
  ないだろう。
  さすがに妖退治の戦力にはならないだろうが見鬼の才はそこそこあるようだし、彼はまがり
  なりにも安倍家の者であるからにして、自分の身は自分で守れるはずだ――と思いたい。
  その前にそんな妖と遭遇しないことに越したことはないのだが………。
  そういえば以前巨大な野槌に襲われた際、あの直丁は目を見開いたまま動けないでいた
  ような……まぁ、そうなった場合自分がなんとかしなければならないだろう。
  「では、今夜空いているかどうか聞きに行くとしようか」
  そう一言呟いて、敏次は立ち上がった。廂を抜けて簀子へと出る。
  今は書物整理をしているか、暦の書写をする為に墨を擦っているであろう直丁を探しに敏次
  は歩き出した。



  一方、日々雑用の仕事に追われている直丁・昌浩と物の怪はというと、陰陽寮の端にある
  書簡庫にいた。
  水無月の初めとはいっても今日は若干気温が低い為ため、東側の妻戸から吹き込んでくる
  風は肌に心地よい。
  日夜、陰陽寮の仕事と夜の夜警とで、この頃少し疲れ気味の昌浩にとっては「居眠りしたい」
  という誘惑がなくもない。ないのだが、そんなことを言っていては何かと細々しい、大量の直
  丁の仕事は務まらない。
  先程までは各省庁に書類を配布するべく、愛用の硯で墨をしゃこしゃこと擦っていたのだ。
  今はその書類がすべて書き終わり、書物の手配を頼まれていたので、その書物を探しに書
  簡庫である塗籠に来ていた。
  「う〜ん。頼まれた書物、なかなか見つけられないなぁ。もっくん、そっちにはありそう?」
  昌浩は棚と向かい合いながら後方にいる物の怪に問いかける。
  「いーや、こっちにはなさそうだな。さすがにこの数だ、頼まれた書物を一つ見つけるのにけ
  っこう苦労するなぁ………」
  「うん、そうだね。頼まれた書物の五つの内、まだ三つしか見つかってないしね………」
  物の怪の返答に相槌を打ちながら、肩越しに後ろを顧みる。
  四本の足の内、二本を器用に使って直立している物の怪の姿が目に映った。さすがに四本
  足の状態では上の棚の方までは見えないのだろう。かといって二本足で立っている状態で
  もあまり変わりはない。
  やはり上の棚の方は自分で探すしかない。
  それにしても、こういう場合の物の怪は実に器用だ。一番上の棚は無理としても、見えない
  所は文机やら何かを使って書物を調べている。
  さすがは物の怪のもっくん。小回りがきくっていいことだなぁ。
  などと物の怪の働きぶりを見て感心する昌浩であった。
  ――――て、感心してないで早く書物を探さなくっちゃな。
  そう思い直して昌浩は再び棚の方に目を向ける。
  「あ、あった!」
  昌浩はたまたま目を向けた先に目当ての物を見つけた。
  「おっ、こっちにもあったぞ。ほら」
  物の怪も最後の一冊を見つけたらしく、器用に書物を抱えながら二本足で歩いてやってくる。
  「ありがとう、もっくん。よしっ!これで全部そろった」
  物の怪に礼を言いながら書物を受け取った昌浩は、すべての書物を抱えて立ち上がった。
  「それじゃあ、戻ろうか」



  塗籠の妻戸を閉め、物の怪を伴って簀子を歩いていると、あちらこちらに数人ずつ固まって
  何やら話しをしている貴族の人達が目についた。
  一体何を話しているのだろうかと思って、自分の傍らを歩いている物の怪に話しかけようと
  口を開きかけた時―――――
  「昌浩殿!」
  唐突に自分の名前を呼ばれたので、昌浩はわけもなく息を詰めた。
  声が聞こえてきた後方を見やると、陰陽生の敏次がやってくるのが見えた。
  そこで昌浩は足を止め、敏次が追いつくのを待った。
  「こんな所にいたのか…………」
  そうぶつぶつ言いながらやってくる所を見ると、どうやら自分のことを探し回っていたらしい…。
  そこで、ようやく敏次は昌浩に追いついた。
  「何か俺に用ですか?」
  自分に追いついた所を見計らって昌浩は敏次に質問した。
  「あぁ、君に用があってね……。一つ聞きたいのだが、君は夜の見回りをしたことがあるか?」
  「え゛っ」
  敏次の唐突な質問に昌浩はわずかに口籠もる。
  そんな昌浩の隣にいる物の怪はかすかに耳をそよがせる。
  (まぁ、したことなら幾らでもあるよな――、毎日)
  物の怪は意味ありげな視線を昌浩に向ける。
  そんな物の怪の態度を知ってか知らずか、それでも軽い動揺を薄い苦笑で隠して、すぐに
  昌浩は答えた。
  「いいえ、そこまでは……。今は直丁の仕事に専念していますし、仮に見回りに参加しても
  他の皆さんの足手まといになるといけませんし……あの、それが何か?」
  表面上、少々困ったような顔を作りながら、いけしゃあしゃあと話している昌浩を見ながら
  物の怪は、

  さすがは晴明の孫。

  と感心している。このたぬきっぷりは他の誰よりも似ているのではと思う。
  だが、そんなことを口にすれば昌浩に睨まれることは必須なので口に出さないでいる。
  昌浩本人はというと、こちらはこちらで嘘がばれないかとひやひやしている。
  いや、嘘ではないかもしれない。日々昌浩が行っている夜警は昌浩一個人」が勝手にやっ
  ていることで、【陰陽寮の仕事】としてはまだ一度もやってはいないのだから……。
  そんなことを昌浩と物の怪が内心で考えていることも知らずに、敏次は一人で勝手に納得
  しているのか、数度頷きながら、
  「確かに、君の言いたいことはわかる。まだ雑用しかしたことがなく、術の一つも覚えてい
  ない直丁では役目不足だと言いたいのだろう?」
  「え、あっ、はい」
  自分勝手な見解に同意を求められた昌浩はあわてて返事をする。
  まぁ、本人がそういう風に話しをとったならそれでもいいが。
  そんな昌浩の心中も知らずに、敏次は話し続ける。
  「しかし、何事においても経験が必要だ。時期としてはまだ早いのかもしれないが、現場
  慣れをするよう努めても私は何も悪くはないと思っているのだが…………」
  「はぁ…」
  一人でどんどん話していく敏次に気のない相槌をする昌浩。
  一体何を言いたいのやら………。
  「と、そこで本題に入るのだが。今丁度夜の見回りをするはずだった者の何人かが、急に
  見回りをする事ができなくなってね」
  「はぁ」
  「一体誰を夜の見回りに誘おうかと思案していた所、君の顔が頭の中にうかんできてね…」
  「はぁ?」
  間の抜けた声を出しながら、昌浩は数回瞬きをした。
  これまでの話しの経緯をまとめると、敏次の言わんとしていることがなんとなくわかってきた。
  「というわけで、夜の見回りに誘おうと君を探していたのだが………どうだ?」
  「えっ、それは……………」
  戸惑いながらも昌浩は頭の中で今までの話しの内容を整理する。

  曰く、夜の見回りをするはずであった者達の何人かが、急に夜の見回りに出ることができな
  くなったため途方に暮れていた敏次は、直丁こと昌浩の存在に思いあたって、現場慣れを
  兼ね合わせて、夜の見回りをしないかと誘っているのであった。まる。

  「で、どうだね?昌浩殿」
  「え――と、俺は………」
  「ん?何か不都合なことでも?」
  「えっ、いや……そんなことは」
  言外に[断るなよ?]と無言の圧力が掛かっているのは気のせいだろうか……。
  「お―――。大変な事になってきているなぁ、晴明の孫や」
  物の怪が若干、目を細めながらおもしろそうに見ている。
  『孫言うなっ!物の怪のもっくのくせにっ!!』
  と怒鳴りたいのは山々なのだが、目の前に敏次がいるのでここはぐっと堪え、怒りの念を
  込めて物の怪にわずかばかり視線を送る。

  後で覚えていろ。

  というようなやりとりを数瞬の間にして、昌浩は再び口を開いた。
  「俺は――――」
  「やあ、仲良く立ち話かい?」
  と、昌浩の言葉は別の人物の声によって遮られた。


  「!行成様!!」
  声を掛けてきた人物に気付いた昌浩と敏次はめずらしく同時に声を上げた。
  「よお。久しぶりだなぁ、行成」
  などと親しげな言動でほてほてと行成に向かって歩いていく物の怪は、この際あえて無視
  しよう。
  「仕事ははかどっているかい?敏次、昌浩殿」
  「はいっ!」
  これまた見事に二人の声が重なる。
  「そうか、それはよかった。ところで何の話しをしていたんだい?」
  「今夜の見回りについて、参加しないかと昌浩殿を誘っていたところです」
  「見回り……ということは血染め桜の件かい?」
  「はい。在らぬ噂も出回っているようですし、念のため様子をみてみようかと………」
  「あの、血染め桜の件とは何のことですか?」
  二人の間で交わされている『血染め桜の件』とは何の事だろう。聞き覚えのないことなの
  で、昌浩は聞いてみることにした。
  「昌浩殿は血染め桜の噂を知らないのかい?」
  以外だという風に行成が言う。
  「えぇ、ここの所直丁の仕事の処理が忙しかったもので……」
  「そうか……五条大路から菖蒲小路に少し入った所にある古い邸に狂い咲きをしている
  桜があるらしいのだが、興味本位で見に行った何人かの貴族の者達が桜の木が襲っ
  てきたと騒ぎ立てていてね」
  「それで、今夜あたりにでもその桜を見てこようと思っているのだが……昌浩殿」
  「はい」
  「そういうわけだからくれぐれも他の者達の足を引っ張らないよう、注意したまえ」
  「はい…へっ!?」
  軽く相槌を打っていた昌浩だが、つい勢い余って了承の返事をしてしまった。
  「そうか、二人とも夜の見回りを頑張ってくれたまえ」
  「はい!それはもちろん」
  はきはきと元気よく答える敏次。その隣で昌浩はこっそりと溜息をついた。
  と、そこで足下に座っていた物の怪がひょいと昌浩の肩に乗り
  「ま、頑張れよ晴明の孫」
  と言いながら、しっぽで頬を軽く叩いてくる。
  「………………」
  これで今夜の見回り役決定だな……。いや、別にいいんだけどさ。
  などと、内心つらつらと独り言を言っている昌浩である。
  「それでは、私はまだ仕事があるのでこれで失礼させてもらうよ」
  そう言って行成は昌浩達を後に残し、去っていった。
  「さて、私も戻るとするか……。昌浩殿、細かい話は後で折り入って連絡する」
  行成の後ろ姿を見送っていた敏次もそう言うと元来た道を戻っていった。
  「はぁ〜、何だか大変な事になったなぁ」
  敏次も去り、辺りに人の気配が無いことを確認してから昌浩は大きく息をついた。
  「昌浩、ぼぉ―――っとしてる暇は無いんじゃないのか?」
  「え?」
  「それ…………」
  物の怪の視線の先には、昌浩が手にしている書物の山があった。
  「あ…………」
  書物の手配を頼まれていたことを思い出した昌浩は、この後大急ぎで仕事に戻った事は
  言うまでもない。



                                                



  


  やっと打ち終わったぁ〜。というのが最初の感想ですね。いや、まだこの物語事態は終わって
  はいないのですが……。なんせ、この二番は結構長くなってしまった気がします。
  ことの発端は敏次を出してみたい!と思い立ったところですかね…。何故か行成まで出てくる
  羽目に。そして、当初の予定より長くなってしまったと…自業自得ですね。


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 2005/5/17